津波の記録       topへ   

このページでは、下のほうが新しくアップした事項になっています。


ほぼ最終版の 釜石市災害対策本部情報
更新日時 H23.8.07  231
主に被災地釜石市民に対する情報です。
更新を重ねてきましたが、仮設住宅がほぼ需要に見合う分完成し、
情報伝達手段として「復興釜石新聞」も刊行されたことから、間もなく発行を完了します。



この項もくじ
アップした日付 (2011年)
03.25 3月の状況
04.03 釜石市大平町からの津波来襲状況写真
04.10 同じくビデオ
04.25 釜石市只越町での第1波来襲以後のビデオ
05.06 被災地のほっとするひととき
05.08 後方支援基地 遠野市の桜
05.17 当日の記録1
05.23 ステッカーを作りました。
07.23 当日の記録2 他
2012.01.20 岩手県沿岸北部の国道他
2012.11.22 湾岸沿いの冠水
2012.11.24 宮城県・福島県沿岸部
2014.03.15 「ふるさとの記憶」展示を見学しました
2015.11.07 復興の現場見学会
2017.01.17 復興支援道路工事進捗状況
2017.06.12  釜石港湾口防波堤 復旧工事現場の洋上見学
2017.08.29〜海岸線の見学
2018.07.10 大槌のあたり復興状況
2018.11.01 大船渡の復興状況
2018.10.28 復興支援道路の見学
2019.01.24 復興支援道路の私的見学その2
2019.08.21 被災翌日から4日後までのビデオデータ公開
2019.09.07 震災から八年余りを経過した釜石市街地を上空から撮影
2019.10.03 陸前高田市の 東日本大震災津波伝承館
2020.03.13 南三陸町から浪江・双葉町まで
2021.03.08 東日本大震災原子力災害伝承館へ (別ファイルで開きます)
2021.06.05 釜石市鵜住居地区の復興状況
2021.08.30 大槌町 イトヨとミズアオイの旧町屋地区
2021.11.19 釜石港グリーンベルト
2022.02.14 気仙沼から石巻へ
2022.03.11 南三陸町のあたり
2022.04.09 いわき市の震災伝承館





2011.03.25 up 
 前回の更新からだいぶ時間が経過しました。
皆様報道でご存知のとおり、東日本大震災により、当地釜石市では地震そのものによる被害よりも、
その後の津波によって非常に大きな被害が出ました。私自身は幸いにもほとんど直接の被害はなく、
こうしてHPの更新に至ることができました。ご心配いただいた皆様、ありがとうございます。
今後の災害対応の糧となるように、多少ずれているものもあるかもしれませんが記録の一部や
文章を掲載してゆきたいと思います。

津波被災時点からちょうど24時間後、当市の災害対策本部に一番に到着していただいたのは
愛知県東海市の消防でした。高速道はもちろんストップしていました。その中を徹夜で駆けつけていただきました。
釜石市は企業城下町であった関係で、多くの転出者が東海市に転勤になった歴史があります。
その縁もあって姉妹都市となっています。 それにしても番号がいいですね。


写真は何日か経過後の、朝の「出勤」風景です。全国から警察・消防・救急・医療・水道をはじめ、ライフライン関係者と、
自衛隊の方々に多く応援にきていただいています。左下は北海道警察の車列です。私が見ただけでも
北海道から四国・九州までの車両が集まっています。


状況は、生存者については避難所から仮住まいの準備へと動き始めていますが、
行方不明者についてはまだまだ瓦礫の片づけが進んでいなかったり、
集落ごとまだ捜索が始まっていなかったりするため、この先の状況はわかりません。
また、報道では比較的便の良い釜石市が多く取材・紹介をされているようですが、
隣町の大槌・山田といった取材報道も不便なところでは、
物資・体制・被災状況・行方不明者など、全ての面でもっとひどい状況が続いています。
遠野市では次女が救援物資の集配管理に携わったりしていますが、均等には行き渡っていないようです。
救援物資の需要と供給のバランスは非常にとりにくく、配送体制も十分ではありませんし、現時点で燃料不足のため
個人で来て頂くのは困難な状況です。このため、一番効率的なのは救援資金への寄付だということを
目にしたことがあります。(結果的にそうなのかは確認できませんが、お金は無駄にはならないと思います。)
状況をみまして判断いただければ幸いです。よろしくお願いします。



2011.04.03 up
津波が来襲する前後の状況を写真・ビデオに撮影したものがあります。
私と、職場の同僚がそれぞれ違った高台に避難した位置から撮影したものです。
その破壊力と恐ろしさを読者の皆様にお知らせし、今後の防災の一助にしていただきたくアップします。
当然ながら画像・映像の無許可2次使用は出来ませんのでご注意をお願いします。
本日アップ分は、釜石市大平町の国道付近から同僚が撮影したものです。
各画像をクリックするとリンク先(Yahooフォト)で原寸大(2M)の画像がご覧になれます。
うまく見ることができない場合にはお問い合わせください。

画像の時刻は、カメラ内蔵の時計に基づきますが、後に時計のズレを確認したところ、7分の誤差がありましたので、
可能な範囲で補正した値で掲載しています。
縮小画像では似た様な状況にしか見えないかもしれませんが、リンク先で原寸大表示すると越流の状況変化がわかります。。
世界最大水深に設置され、ギネスブックにも載っている(らしい)、釜石港 湾口防波堤に津波が迫り、
全面越流し、一部倒壊するまでの状況が記録されています。

釜石湾と、湾口防波堤の位置関係はこちらのリンク先地図(写真)のようになります。

一般の波浪と津波の違いはその波長と周期にあります。
同じ5mの波でも一般の波浪は十数秒と言った単位でプラスマイナスが繰り返されるので大きな被害は無いのに対し、
津波の場合には周期が10分以上ありますので、海面が盛り上がった状態が十数分以上継続します。当然海水は低い方に
流れ、陸地をも飲み込んで巨大な川のように進み続けることになります。

15:11 湾口防波堤北堤(南堤もある)の北端から流入する海水が増えてゆきます。  ↓15:13

今回の津波の波高は、釜石湾では湾口防波堤の効果で10m程度のようですが、
同じ市内でも湾口防波堤の無い湾では、各地の高さ12mほどの防潮堤(陸上にある)を2倍近くの高さで越えたという
目撃談を聞きます。もし、湾口防波堤が無ければ釜石の市街地はもっともっと奥まで津波に飲み込まれていたかもしれません。
私もその境目の辺りに津波来襲当時に居ましたので、この防波堤のおかげで助かったといえます。
15:16

15:18 防波堤全体を、すごい厚さで海水が越流して行きます。

津波が去ったあとの防波堤は、ご覧のように歯が欠けるように崩れてしまいました。
被害低減の効果はあったとおもわれますが、この崩れた状態で次の宮城県沖地震・津波がやってきたら、
さらに甚大な被害が想定されます。
15:24                                        15:30



2011.04.10 up
釜石市大平町に、津波第1波が到達した時の状況です。

そして、第1波が引いてゆく時の状況です。
津波には押し波と引き波があります。そのどちらが最初に来るかは決まっていないということです。
また地震から津波到達までの時間も、決まっては居ません。
今回は岩手では30分程度はあったのですが、その間に(結果上の)到達区域から
逃れることができれば多くの人が助かったものと思われます。
普段は甲子川の河口で穏やかな水域を、大河の濁流のように引き波が流れてゆきます。


第2波の引く時の様子です。漂流物には大きな貨物船(5000t)もあり、このあと3波で陸上に残ることになります。



2011.04.25up
前回は釜石港の南側から撮影したものでしたが、こちらは北よりの市街地只越町の
旧釜石第一中学校付近空の撮影です。国道45号を遡上してきた津波の瓦礫です。


釜石 津波 第1波到達直後 只越町から
冒頭の黄色い埃は、津波の激しい勢いで倒壊した建物から発生したものです。
第1波が来襲する瞬間を肉眼で見ました。メインストリートを時速数十kmの速さで茶色い泥のしぶきを散らしながら
横断してゆくのが250mほど先に見えました。その後水面と瓦礫が自分の方にも向かってきましたので
さらに高所に向かいましたが、車を置いた所から標高差で数メートルのところで瓦礫の流れは止まりました。
その後、第二波、第三波と繰り返し、濁流は市内を往復しました。


釜石 津波 只越町から 第3波以降
撮影位置はこちらのトンネルの上付近からと、東に伸びる「避難道路」からです。
釜石には浜町と只越町を結ぶ山腹に「避難道路」が設けられています。
この道がなければ市街の東西はさらに寸断されていました。


2011.05.06
被災地のほっとするひととき・・・

困った・大変・・・ばかりではなくたまに楽しい事もあるようです。
今日の午後には天皇・皇后夫妻が当市の避難所に来られました。
その日朝には遠野まごごろネットに、午前には釜石市の旧釜石第一中学校跡の避難所に、
武蔵さん、藤原紀香さん、大黒摩季さん が来ました。
詳細は こちらにあります。 http://tonomagokoro.net/?p=462#more-462
わがスタッフもお目にかかれたようでサインをしてもらってきました。

(ヘルメットにサインをもらった)スタッフいわく、
     「これでもっとがんばれる!」

(作業服に直筆でもらった)こちらのスタッフいわく、
    「より」がついている分、こっちが上。
ウチの妻は離着陸場と避難所の間で天皇夫妻を拝見することができたそうです。
皆さんよかったですね。(私も行きたかった・・・)

2011.05.08
被災地の後方支援基地となっている遠野市でも本州で一番遅い桜が満開となっています。
 ↓5月4日時点では5分咲き程度でした。 鯉のぼりは静岡の方々の支援で飾りつけが行われていました。

そして連休最終日5月8日の並木です。満開になりました。 遠野風の丘では やわらかくておいしい うぐいす餅の無料配布が・・・


猿ヶ石川沿いの国道に沿って、満開の桜と鯉のぼりが泳ぎます。動画で一緒に散歩(ドライブ)してみましょう。



当日の状況  2011.05.17up
震災当日の私の経験等を、記憶が新しいうちに記録を残しておくこととします。

 地震発生時には私は業務で、釜石市只越町にある鉄筋の建物の3階に居ました。普段の勤務場所は釜石湾の南岸である大平(おおだいら)町なので業務用車両で移動することが多いのですが、この日は帰りが遅くなりそうなので、滅多にないことなのですが(1年に2〜3回)、自分の車で向かい、やや高所にある駐車場に置きました。このことが私の幸運の第1です。普段の駐車場所では結果的に同僚の車など20台以上が流され、全損となりました。
 14:46に揺れが始まりました。当地では震度6弱は私の記憶の限りでは初めてでしたが、数年前にあった震度5と比べて市内の建物の被害や落下物の状況に限ってみれば、同程度の被害かと思われました。しかし体感上は鉄筋の建物が倒壊するのではないかという心配があるくらい激しい揺れで、振動の周期が細かかったために建物が共振しないで倒壊を免れたのかも知れません。揺れは長く続き、少し前にあったニュージーランドでのビル倒壊と日本人の被害がアタマをよぎりました。
 ただ事ではない揺れに業務は中断され、それぞれの持ち場に向かいました。当然当地三陸海岸では、大きな地震=即津波ということは常識です。まもなく「大津波警報」(3m以上)が発令され、市内には防災広報の音声が各所のスピーカーから鳴り渡りました。
 建物の玄関にあるガラスは割れ落ちていました。またいで外に出て車を置いた所に向かい、普段の勤務場所に戻ることを考えました。戻る途中にある担当設備を点検して行こうかと思いその鍵を探しました。ところがいつもは車に積んであるはずの鍵が見当たりません。この「鍵が見つからなかった」ことが私の幸運の第2です。もし簡単に見つかっていれば、私は津波来襲区域となったその場所に到着してそこで津波を迎えたでしょう。
3月11日15時11分
釜石湾口防波堤 北堤の北端開口部から流入を始めた津波第1波。右奥にはタグボート、手前中央には沿岸部の津波を避けて沖へ向かっていると見られる船舶が居ます。
 揺れから津波まで、時計を見ることはありませんでしたが、すぐに避難をすれば、市街地の低所からでも周囲の高台まで歩いて十分間に合うくらいの時間はありました。当地三陸海岸は町並みの幅と奥行きが狭く背後には急峻な山地が迫っているので仙台平野のように水平方向に多く移動しなくても坂道や階段を上ることができれば避難自体はそう困難なことではありません。
 気温は3月ですので高くありません。やや風もありました。旧釜石第一中学校のあたりは避難場所にもなっていますので、近くの人達が集まってきました。近くの防災倉庫から毛布などを搬出してお年寄りに使ってもらう作業等を始めました。ヘリコプターが飛来した音がしていたような気がします。
 そして私の耳に残っているのは、ジェット機が低空飛行をしたような、それをさらに大きくした音でした。3機くらい同時に飛んだような大きさです。昨年航空祭を見てきましたので、実物のジェット機が低空飛行した場合の音像定位や移動の聴感は記憶にありましたが、それとは違う、周波数分布も微妙に異なる、全体に同時に響き渡るような音でした。空を仰ぎ見ましたが空に物体はありませんでした。 今思えばあれは津波の来襲による海鳴りだったのではないでしょうか。 でもそのことに関する報道は今のところ目にしていません。話している人もないようです。津波が来たときに轟音がとどろき渡るということを聞いたことがあるような気がするのですが、私が聞いたのはそれだったのでしょうか。大地震津なみ心え之記などには海鳴の記載や大きな地震が数ヶ月の期間を置いてまたやってきたことなどが記されています。
 福島市にいる長女から無事を尋ねるメールが来ましたので、大丈夫だと返信しました。地震直後にはメールは通じました(通話はわかりません)。でもこの時点では津波が来ていませんので無事で当たり前でした。 このあと何日かの間当地ではケイタイ・固定電話とも通じなくなりました。 ケイタイは国内の他の地域(被災地以外)のように発信規制によって「通じにくくなった」というのではありません。 「圏外」の表示のままでずっと変化がありません。 圏外では電池の消耗が激しくなる(確認のため送信を繰り返すのが原因ということです)ので、電源を切っておいて、時々入れては確認するということを皆繰り返していました。
 大津波警報(3m以上の予想では大が付く)が発令され、防災広報の拡声器から市内一円に鳴り響いています。でも津波の注意報と警報はここ数十年当たったことがありませんでした。 昨年(H22年3月)のチリ地震津波でも大津波警報が発令され、相当の時間通行規制がしかれて生活に混乱と支障が出たにも関わらず、被害は全くというほどありませんでした。 釜石湾にはTP+8mの湾口防波堤があります。そして海岸線にはTP+4mの防潮堤があります。 3m程度の予報であれば特に逃げる必要はないと考える人が多かったのかもしれません。
 ラジオをつけるとその時点で数十センチの潮位変化を知らせる内容が放送されていたような気がします。 私もやはり常時勤務場所に戻ろうかと考えて車を出し、駐車場から国道に右折しようとしました。鳥谷坂トンネルを出てきた車の列は、何も無いときの様に次々と低地の市外へ滑り込んでゆきます。その列が途切れるのを待っていましたが、もう一度考えました。大津波警報が出ている現在、最大の安全策は何か? やはり少しでも危険な方向には行かない方がよい。職場へ戻るのは警報が一段落してからでも良い。私の中ではそのような結論になりました。 私の車の後ろにもう一台、同方向に進もうと待っていた車がいましたが、ギアをバックに入れて、よけてもらって、元の駐車場所に戻りました。 これが幸運の第3となりました。
3月11日15時13分
釜石湾口防波堤 北堤の越流量は大きくなってきています。タグボートは左に移動しています。
 それから数分して、高台にいた人の叫び声が聞こえました。「津波が来たー!」・・・低い市街地が見える位置まで行って見ました。見通した先の通りに見えたものは、水ではなく茶色に濁ったしぶきが時速数十km程の速さで交差点を横切ってゆくものでした。徐々に水没すると言ったものではありませんでした。 このままでは今いるところまで来るかもしれない!さらに高所に向かって走りました。  
(以降7月23日UP)
3月11日15時16分
ほぼ防波堤の全面に渡る越流が始まりました。

左下 同18分   ↓ 同24分
 横方向に逃げながら、もし水位がどんどん上がって押し寄せてきた場合にそのアタマが現れるであろう方向を注視しました。そこにも相当数の避難者等が居ましたが、幸い避難者の直前で水位の上昇は止まりました。それからは前述の動画(釜石津波第一波到達直後)に記録されている状態となりました。
←第一波の先端到達部には瓦礫が重なり、歩行もほぼ不可能な状態となりました。第2波もほぼ同じ高さまで来ました。

左下は高台から見た同所。下はその部分拡大。車と家が壊れた瓦礫が積み重なっています。
← 第3波で打ち上げられた4700tの貨物船。その舳先は防潮堤から市道にはみ出す形で止まっています。その部分の市道は片側交互通行です。 左下は引き波で現れた桟橋の橋脚部分

3月11日の夜は冷えました。強い余震も何度も来ます。打ち上げられた瓦礫から木材を拾い集めて、旧一中の避難所に隣接する旧釜石小学校の校庭で多くの人が焚き火をしながら一夜を過ごしました。下は飲用に汲んだバケツの翌朝の状態です。氷が張っているのがわかるでしょうか。

 津波が到達した区域では全ての道路が通行不能となりました。Youtube上にアップされている映像の中に、釜石市役所前への津波到達時の状況がありますが、その中に自衛隊の方が映っています。あれはたまたま市役所に用事があって来ていて津波に遭遇した隊員の方です。釜石近郊には自衛隊の拠点はありませんので滅多に自衛隊の車両を見かけることはありません。トラックで来ていましたが、車軸あたりまで海水に浸かったものの走行可能だったようです。ですが道路が数日後に瓦礫除去完了するまではいかに自衛隊の車両でも通行できる状態ではありませんでした。
 11日の被災時から停電し、固定電話携帯電話とも不通、上下水、ガスのライフラインはストップしました。ですがライフラインの中でも最重要なのは車の通れる道路です。道路さえあれば量は少なくても、時間がかかっても、情報やライフラインは輸送により届けることが出来ます。患者の輸送も可能です。翌朝までに市役所から外部・遠野方面と確保できた道路は下図の赤点線の経路でした。市街の道路上の瓦礫が撤去されて、この迂回路を通らなくて済むようになるまで4日を要しました。周辺の迂回路の状態はこちらで確認ください。 この経路に変わる自動車専用道として、三陸縦貫道が計画されています。
 そして今回の災害に、出来ていて非常に助かった道路が2本あります。1本は新仙人峠道路です。釜石自動車道の一部分として4年前H19に開通しました。旧仙人峠に比べて通過時間の短縮、安全性(特に冬期)の向上で大きく進化して、輸送力のアップになっています。

 もう一つが震災6日前に開通した三陸縦貫道の 釜石両石IC〜釜石北IC 間です。左図の「鵜住居駅」「中根」とある辺りは全て呑み込まれて国道は一部海の入り江のようになってしまいました。新しい自動車道が無ければ、この区間は長期にわたって通行不能となり、復旧が大幅に遅れたことは必至です。数週間はこの自動車専用道のトンネルを歩行者・自転車・車が共同で使用していました。 数百年間隔で発生する津波の周期に対して、わずか6日の違いで間に合ったということは、この点に関しては幸運だったといえます。




復旧支援ありがとうございます! 11.05.23up
 当地で活躍いただいている支援関係車両の皆様に、地元車両として多少でも感謝の意思を伝えようと思いまして、
パネルと申しますかステッカーを作りました。カラーでプリントアウトした用紙をラミネートしたものです。

 上記は車両前面用で、裏文字にしてみました。前を走る車のルームミラーから読み取ることを主目的としています。
後面には裏ではない正像のものを貼りつけてあります。
 これから復旧まで長い道のりですが、市外・県外の方々からもご協力をいただくことで復興に弾みがつきます。
ありがとうございます。そしてこれからもよろしくお願いします。

12.01.20up
津波から10ヶ月経過した、岩手の県北沿岸の町を通ることが出来ました。これらの町並みが早く元気になってくれることを願っています。










(2012.11.22up)

2012.11.15 釜石市内の海辺

震災時に市内では84cm前後の地盤沈下が起こりました。このため大潮前後の満潮時には、相対的に海面が上昇したため、
あちこちの路面が冠水します。頻繁に冠水する部分には路面を数十センチ嵩上げしてありますが、、それでも最高時には
下の写真のように冠水します。
↓公共埠頭の入り口とその先。 右下はその先から振り返った陸地方面。画面左に盛り土した迂回用路。

釜石湾を見下ろす高台から。途切れ途切れになった湾口防波堤の復旧工事が行われています。

馬田岬に近い、泉地区のケーソンヤードでは、復旧用のケーソンを製作・設置するための工事が進んでいます。


そしてこちらは旧魚市場周辺です。4700tの貨物船が漂流して防潮堤を破壊した部分には大型土嚢が積まれています。
右下写真はかつて水揚げを行っていた場所です。上屋は取り払われ、作業場所は水没し、点々と水面に出ているのは、
岸壁に並んでいる係船フックです。 市街地の地盤が嵩上げされて、新しい町が形成されるまではまだしばらくかかりそうです。



(2012.12.01up)
2012.11.24 福島へ行く用事がありましたので、岩手から相馬市まで、海の近くを通って各所の状況を見ました。
沿岸部を通過した場所は、大船渡市・陸前高田市・気仙沼市・南三陸町(歌津・志津川)・石巻市(河北)・亘理町・山元町・相馬市です。
岩手県内では陸前高田の市街がひどい状態ですが(既述)、宮城県の南三陸町に入るといまだに大勢のボランティアが
はりついていて、道路も町もほとんど復旧が進んでいない状態でした。 
↓ 南三陸町清水浜? 鉄道も国道も橋がなくなり、迂回路を通ります。

↓ 南三陸町 志津川 大きなものは撤去されていますが、まだ大型土嚢や、入りきれない残土が多くあり、、ボランティアの
  人手で作業が行われています。 かの「防災庁舎」もこの近くにあります。 ビデオも一応回しましたが、掲載は控えます。

このあとも内陸部には回らず、国道398号を進んで、北上川河口にかかる新北上大橋に出ました。対岸の大川小学校では
大きな被害が出ました。こちらも写真は気持ち的に撮ることが出来ませんでした。
河北インターから岩沼インターまでは高速道を利用して、再び海岸線、今度は6号に並行した、1本海よりの道
県道38号を南下しました。一般車両はほとんど通らず、ガレキ処理関係の大型車両が目立ちます。
この道も福島との県境で一般車両は通行できなくなり、6号に戻って県境を越えます。
福島県相馬市の松川浦河口にかかる松川浦大橋です。ダンプが通行していますが、一般車両は通行止めです。

 私の住む三陸では、高い防潮堤や湾口防波堤があっても大きな被害が出ましたが、宮城・福島では
あまり高くない防潮設備に大きな津波が押し寄せことと、背後の山が遠いために、大きな面積で被害を受けていました。
せめて人的な被害を抑えるための有効な方策が、今後の様々な災害に備えてとられることを願っています。


2014.03.15 ふるさとの記憶
 NHK盛岡放送局の企画によるプロジェクト「ふるさとの記憶」の中で、失われた街並の模型による復元が行われました。
全国複数の大学の建築系研究室で製作していただいた被災市街地模型の集中展示が、盛岡駅近くの県民情報交流センターで
2014年の3/1〜3/16の間、行われていましたので、見させていただきました。
   ↓アイーナ全景。ROで山田町の模型                          ↓ROで宮古市田老地区の模型


県内各被災地の地元で昨年(H25)から その区域の模型が展示されて来ましたが、ここにその全模型が集合しています。
各地区には思い出のある人たちが集まって食い入るように、あるいは指差しながら見ています。
↓アイーナ4階の展示。左奥から右方向へ釜石市、大槌町、大船渡市、陸前高田市。左下は福島県浪江。ROで高田。



 ↓釜石市の中心市街地と、伯母が住んでいた只越のアップ。   ↓同 呑兵衛横丁。


↓釜石市港町地区。右寄りにタテに見える桜並木に沿った家も基礎を残して全部なくなりました。
  写真左端のあたりには、2014年4月に岩手の沿岸部初のイオンタウンが開業しました。
  ROで陸前高田の町。奥が高田松原。緑の山並み以外のところは全部水没被災しました…。




↓会場を訪れた人がコメントを書いてパネルに貼り付けてゆきます。 福島・浪江の家並みは屋根の色も無く静まっています。
この6日後テレビで浪江地区の再放送を見ましたが、色が塗られていない理由は、一つにはそこに住んでいた人たちはこの展示
箇所まで来ることすらままならなかったということ。もう一つは白いままのほうがよいという希望が他の地区ではなかったのに、
ここではあったということです。その理由は「塗ってしまうと過去のものになるが、白いままだとまだ可能性がある」というものでした。


今となってはこの街並みはもう二度と見ることが出来ないかと思うと、さすがに胸に迫るものがありました。
この模型を制作・企画してくださった皆様に感謝します。

(この行から 写真サイズが大きくなりますので、ウィンドウの幅を1000ピクセル以上にしてご覧ください)

2014.09.04 自衛隊大湊音楽隊の演奏
岩手の三陸沿岸では初のイオンタウンが開業して半年になります。 その店舗前の広場で演奏会が開かれましたので、両親を連れて聞きに行きました。いつ聞いても生バンド演奏はいいです。
聴衆も大勢集まっていました。平日の昼なので、ごく近くに勤める人は昼休みに来られたかもしれませんが、あとはだいたい私のような時間が自由な人≒高齢者が主な方々です。

一時間くらいの演奏時間でしたが、いろんなジャンルから聞かせてくれました。 釜石出身の隊員もおられました。 福田こうへいさんの演歌もありました。
釜石市役所の主催という紹介でしたが、司会から全て音楽隊の方が進めてくれました。市役所の方が出られたのは、花束贈呈でM・Oさんが前に来られたときだけでした。

NHK震災支援プロジェクトのテーマソング「花は咲く」も3名の方の合唱と演奏で聞くことが出来ました。
今自分が立っているところも、震災時には中番庫を越えてやってきた大きな津波に飲み込まれ、大勢の方が犠牲になったことを思い出さずにはいられませんでした。
今にもオカムラや釜石飼料の建物の陰から大きな濁流がやって来そうな感覚が、現在の景色と重なりました。
右下写真(イオンの前から撮影)の奥のほうには、情報交流センターや市民ホールの建設がまもなく始まります。
アンコール演奏のさいごは、海上自衛隊らしく「軍艦マーチ」(動画)です。特に50代後半以降の人たちには耳になじんだメロディーです。私も子供の頃はけっこう軍歌を聞いていました。
週末7日には、同じく青森の三沢基地で開かれる航空祭で、また自衛隊の演奏を聴いてくる予定です。
自衛隊の持つ任務の一つ、災害派遣では本当にお世話になりました。
そして国際情勢が混沌とする中、どうかもう一つの任務である防衛戦力の行使が必要な事態がやってこないことを祈っています。



2015.10.31 復興の現場見学会 

 既述のように、震災の一週間前に開通した三陸自動車道(の一部)によって、避難が進んだり集落の孤立を抑える効果がありました。
また、東西方向の釜石自動車道によって、緊急救援物資や部隊の移動が円滑に行われました。  僻地における高速道路の建設には
以前は異論もあったようですが、このたびの震災でその有用性が実証され、建設が以前より前倒しで行われるようになりました。一方建設
費用は地元負担が大きくなる方向に変化した部分もあります。

 岩手県の釜石地方振興局土木部(?)の主催で、復興の現場見学会が開かれましたので、一般人がふだん立ち入ることのできない場所を
見てきました。バスで巡りますが定員がありますので事前に予約して集合します。最初に向かったのは釜石自動車道の一部、向定内(むかいさだない)
トンネルの工事現場です。
 <向定内トンネル>

 北上高地が海になだれ込む地形ですので谷あいに沿ったルートのところどころに、枝沢と峰があり、それらを越えるために橋梁とトンネルが混在します。
トンネルの掘削現場はこれまでにも見たことがありますが、工事を中断して中を見せてくれます。扉と壁は、発破の衝撃を遮るもので、このあと2重にして、
さらに遮蔽効果を高めるそうです。




次に向かったのは鵜住居町の小中学校建設現場です。高台に用地を造成しており、その一角から町内一円を見渡せます。

巨大な杭打ち機やクレーンがフル稼働しています。この地では2019年にラグビーワールドカップの試合も行われますので、それに間に合うように
嵩上げ造成が行われています。
左上写真の左隅に少し海が見えます。左下写真は雨水排水ポンプ場ですが、低地で排水を行いますので、既存施設を復旧活用します。


鵜住居校舎予定地から


大きな工事が進んでいますが、私の近くの仮設住宅団地では、入居者が次第に減っています。新たな住居の目処が立った方もおられますし、
市外へ転居される方もいるようです。 国土の均衡ある発展、都市と地方の格差が広がらないように祈っています。


2017.01.17 復興支援道路工事進捗状況 (日付はアップした日)

 前回アップした日以降に津波と復旧に関連して他のページで掲載した部分は次のところにあります
  ドローン空撮等による、復興道路・河口水門の進捗状況
 また国土交通省 南三陸国道事務所による 復興支援道路完成予想CGはこちらにあります

休日の散歩コースに、近くにある送電線と鉄塔に沿った巡視路を二人で歩き回ることがたまにありますが、その巡視路と自宅のある街並みの間に
復興支援道路(高規格道)の建設が横断するように進んでいます。工事が始まる前は、どの枝沢からも山に入ることが出来ましたが、
工事がだいぶ進んできたので、工事現場内に入るわけにもいかず、将来も通路として確保される道で、高規格道路部分を横断して山側に入ります。

↓下の写真の左枠外の辺りには仮設住宅がありましたが、16年の春に移転が完了しています。今は工事の現場事務所などが建っていて、
  既設の道路が迂回路に変わっています。 新しくできる道路は中段のショベルが止まっている辺りを通ります。


将来も残る作業道を少し上がって、例の巡視路に入ります。 この歩道沿いには分岐点など要所に鉄塔番号と方向を示す表示板があります。


鉄塔の周りは木を刈り払ってありますので見通しがきいて市街地が望めますが、鉄塔と鉄塔の間は主に杉林の中を進みます。


三本目の鉄塔から北側の工事現場の方に向かいます。尾根の斜面を切った頂上部に出ると、さっき渡ってきた橋や工事の重機が見下ろせます。


工事個所のへりを回って降りて行きます。この時は正月休みで、普段日曜以外は休まない作業員の方々が、故郷に帰る長いお休み(多分)を取っていて
重機やダンプやトラックだけが留守番をしていました。


また別の日に近くの別工区で、こちらはこの年度内作業が完工したところを河原から歩いて行って見学しました。
右下の写真に見えるトンネルは、車が通れるようになっていますが、その奥の舗装は高規格道に沿うように消失していますので、
想像ですが近くの医療機関への緊急車両退出路かもしれません。この辺りは道幅が広くとってあり、両側で2車線の道路の中でも
貴重な追い越し車線が出来る場所だと思われます。(上記南三国のCG参照)

3.11の数日前に開通した海辺の高規格道が「釜石の奇跡」で助かった子供たちの避難所への輸送や、その後の復旧に大きな役割を果たしたことに感謝し、
この場所の横断方向の道路も、単なる利用率や通過台数や採算などだけで判断されることなく、将来にわたって地域の財産として役に立つことを
期待して開通を心待ちにしています。


2017.06.12 釜石港湾口防波堤復旧工事 洋上見学
 2012年11月22日にアップした記録では、湾口防波堤は原型をとどめていませんが、丸6年を経過して、ほとんど復旧は完了しそうです。
とは言っても、工事は洋上で行われていて、一般人は間近で工事の進捗を確認することは出来ません。


近くの公民館主催見学会がありましたので応募・参加・記録してきました。釜石湾口防波堤の津波時の効果については賛否の議論もあるようです。
しかし、釜石湾内の海岸線から遠くない陸地にいた私から見ると、浸水高さがあと数メートル高くなれば、私のいたところも飲み込まれた可能性があります。
また、この防波堤の反射波の影響で近隣の湾では浸水高さが上がったという説には、波の一般的な動きから同意は難しいところです。
そして行政機能の中心になる市役所の1階及び2階が、さらなる高水位で全て水没した場合を考えると、影響はさらに甚大になった恐れがあります。
そのようなわけで、私的にはこの湾口防波堤は命の恩人であり、他の都市に比べて被害を少なくしてくれた重要構造物です。


詳細は字幕付きで動画をアップしていますので こちらから ご覧ください。


2017.08.29〜海岸線の見学
 津波被災から7年目となり、復興工事が進んでいる所を、何カ所か見学してきました。破壊されたものを元に戻すのを復旧と言いますが、
復興はさらに新しい機能を盛り込んで将来の役に立てようというものです。下の写真は鵜住居川の河口に設置工事が進められている水門です。
場所は このあたり です。甲子川河口と同様に、川幅の半分ずつ施工するようです。


こちらは桑の浜を対岸の愛の浜(右下写真)から望んだところです。震災前から結構高い防潮堤はあったのですが、それを優に乗り越えて被災しました。
現在防潮堤が3/5程築かれているのがわかります。住戸は嵩上げした背後の高地に建てられています。


こちらは水海川の河口堤と水門です。40年近く前には堤自体が無かったのですが、その後作られた設備をやはり大きく超えて破壊され、背後地は浸水しました。


(9/3撮影) 尾崎白浜の漁港です。低地の住宅は全て被災し、やはり高所に建て替えられています。 
                      隣の佐須では、海水浴場の背後にあった林が全て折損して根元の部分だけがのこっています。


 花露辺(けろべ)の集落でも、低地の住宅や漁業設備が被災しましたが、公営復興住宅が市内でも早く完成して(左下写真の右端中段)また活気が戻っているようです。
                        右下は本郷地区の防潮堤ですが、付近の道路と共に嵩上げが進んでいます。残った部分が黒っぽい部分でしょうか。


こちらは小白浜地区です。やはり住居は一定以上の高所に建て替えられています。

防潮堤を高くすると、海が見にくくなって危険という意見もも多いのですが、
上の各地の写真のように背後地の傾斜が急なために、海を見下ろすことができる地域もあります。
防潮堤の高さを設定するにしても、そこに住む・働く人の考えと、安全確保のバランスをうまくとって進める必要が、各地であったようです。



2017.07.10 大槌のあたりの復旧状況
震災直後に業務関連で現地確認して以来、訪れていなかったところや、初めてのところの回復状況を見学しに行ってきました。

地形図は釜石市片岸町から室浜地区に至る道から、かつて根浜海岸の長大な砂嘴があったところを、震災前後で比較したものです。
左は手元にあった古い紙ベースの地形図をスキャンしたもので、河口が下の方にあります。(下半分が1/5万、上半分が1/2.5万)
右の地形図は現時点で地理院地図で公開されている同地区です。 内容は震災直後です。砂嘴は消えてしまって堤防の残骸が細長く表示されています。
図が逆さまなのは、下の写真の構図に合わせるためです。
    

写真で確認します。津波直後には、昔から何度も遊びに行っていた長大な砂嘴は、途中の松林があったところを除いて流失してしまいました。
4WD車であれば先端まで走って行けて、マロウド貝が採れて、食べたりして遊んでいたところです。
現在はパワーアップした防潮堤の工事が進んでいます。右下写真で、良くわかりにくいのですが、3倍位は高さがありそうです。

   震災直後の鵜住居川河口付近の写真 砂嘴が一部残る                       現在の同 工事中   
 

その先の室浜集落へ、新しく高台に開通した道路とトンネルを通って進みます。
下の写真はこの集落の排水処理場の震災直後ですが、近くの防潮堤を超えた津波は周辺の地盤を洗堀してマンホールの側壁が立っています。
津波はこの処理場の屋根を越えました。  右下の写真は多分同じあたりですが、復興途上です。
 

大槌町に入りました。 こちらでも巨大な防潮堤が建設途中です。
ひょっこりひょうたん島のモデルになったとされる、赤浜地区の蓬莱島の灯台も再建されて、島までの道がつながっています。
 

ここからは海岸線を離れて、半島を周回する道を回ってみます。途中には展望台やトイレなどもある休憩所があったりして、私的には良いところですが、
他の皆さんにはどうでしょうか。この道はたしか1970年代に自衛隊の協力で開通させたと記憶しています。回って赤浜に戻ってくる直前に、かつて大槌荘と呼ばれた
国民宿舎の跡があります。その後民間経営に移行したかと思いますが、ググっても出てこないくらい、過去のものになってしまったようです。(右下写真)
植栽は伸び放題ですが、ガラスは破れているところは無く、千と千尋の神隠しの世界を少し思い出します。



2018.11.01 大船渡の復興状況
三陸沿岸復興道路の、直近の新規開通区間である、釜石南インターから乗って、大船渡市まで弾丸半日ツアーに行ってみました。

以前にも来て見たことがあるのですが、入口がよくわからなくて戻った、新大船渡魚市場の、一般来場者が入って展望等を楽しめる所へ上がります。
遠くからでも帆のような屋根が目立ちますが、その下のデッキからは湾口方面で日差しに輝やく海が見えます。
振り返って内陸側(北)を見ると五葉山の稜線が見えます。台形に一段高く見えるところが頂上のように思われますが、あそこは黒岩のピークです。
本当の頂上は右よりの奥まったところになります。標高差は30mほどですが、下界から眺めるとよくわかりません。

階段で下りてきながら(上りはエレベーター)、展示室等を見学します。 各種の資料や趣向を凝らした展示物がありますが、時間が早いためか、だーれもいません。
すこし申し訳ない気持ちになりながら、二人で楽しみながら見て回ります。

天井からたくさんの魚のモビール?が下がっていますが、右上写真の覗き眼鏡を通すと、偏光板らしく、回すと白黒が逆転して変化が楽しめます。

こちらは箱メガネを覗きながらあわびをカギで引っ掛けて取る状況をまねしたものですが、竿が短いので簡単です。

このあと、KYASSEN大船渡 という集積商業施設の中や周辺を歩いてみます。隣接するホームセンターで編み方のしっかりした靴下を見つけたので買いました。
少し厚めの靴下は、往々にしてパイルが柔らかすぎて、つぶれたり毛玉が出来るものが多いので、元の繊維がしっかりした物を時々見つけると買い求めています。
近くの川には鴨が多くいましたが、鮭も何匹かいました。中には役目を終えた鮭も見えます。
、11時になったので、黒船SECOND(二号店)というラーメン屋さん(右上写真)で、昼食をいただきました。痛恨のミスですが、店内写真は紛失してしまいました。
 ですので、公式HPからの写真で代用です。スペシャルの貝だしラーメン(1000円)を一つと・・・
不勉強で、サンマラーメンをいただきたかったのですが、そちらは本店の方だけだということで、
券売機のメニューを見ると、ミニカレーセット(カレーライス+ギョウザ2個)
がありましたので、私たちは小食だし、間に合うだろうということでそれにしました。結果は…
ミニカレーとなっていますが、ほぼ普通のカレーに近い量です。味はツナかな?
それにギョウザも大きめで、このセットの方の価格は、なんと250円です!
何かのまちがいではないのでしょうか。ラーメンが本業とは言え、これが多く出ては赤字が心配です。
ラーメンは美味しいけど塩分が心配… というところが多いのですが、
こちらはあまり味が濃くなく、貝だしで最後までおいしくいただけました。(汁は残して)

あの震災から7年余りが経過しました。三陸沿岸の各地でも、道路や港湾や街並みや商業施設や文化施設や・・・
色々なものが、元通り(復旧)ではなく、バージョンアップ(復興)して姿を現しつつあります。
でも、時々思い浮かべるのは古い町並みです。 また新しい町もまだ全容を表してはいません。
復興は時間がかかります。その間に人口はどんどん減っています。 
首都圏など大都会への人口集中を是正する政策も同時に必要です。


2018.11.19 復興支援道路の見学 (取材は10.28)
 三陸の海岸沿いを、仙台から八戸まで国道45号にほぼ並行して建設され、今年度中にかなりの部分が完成する三陸沿岸道路(復興道路)、
東北地方の内陸部を縦貫する国道4号との間を結ぶ復興支援道路は、震災時に「櫛の歯作戦」で使われた国道を、高規格化するものです。

 ↑ 遠野方面に抜ける道は向こうの土倉山の真下を隧道で繋がって行きます。         ↑ 東の方を見ると県立病院があって、救急車用連絡路も作られます。
 この辺りには、追い越し車線区間になりますので、やや幅広にできています。中央部分には多分ワイヤー式中央分離帯を設置するための基礎があります。

今まで山林や農地だったところが、この数年で高規格道路に変化しました。完成まであと半年弱ですが、土曜日は作業しているものの、日曜は休工となっています。
近くに住む私たちは、施設の見学会に時々出かけます。とはいっても一応は立ち入り禁止になっていますので、核心部分には立ち入らないように、
切り回しされた林業用の道路や、作業出入口のあたりから中を見学させていただきます。多分後日地元住民を対象に何らかのウォーキングイベントがあるものと期待します。


山を切った法面をみると、鹿の通った踏み跡とともに、キノコがたくさん生えています。 食べられれば相当な収穫ですが、あまりおいしそうでもないので止めておきます。


 標識関係もだいぶ整備されてきました。 山肌に沿った道なので、橋や切通しが交互に続きます。


近くの山林から木材を搬出したりする林業用だと思いますが、作業道が高規格道により分断されますので、丁寧に各所にう回路が設けられています。
10月末時点の取材でしたので、まだ紅葉はあまり進んでいませんが、一部では蔦の紅葉が始まっていました。
あと5か月余りでこの道路を通ることが出来るのが楽しみです。 でも、子供のころにこの辺りでドジョウすくいをしたり、小沢で沢蟹やサンショウウオを獲ったり、
キャバリアのリビと湧き水のあたりで遊んだことが思い出されます。 少しだけ寂しい気もしました。


2019.01.24 復興支援道路の私的見学 その2 (取材は2019.01.05と.01.20)

たまに家の近くを散歩するのですが、いつも同じところだとつまりません。季節が違うとか変化があればいいのですが、
この高速道路建設場所はあと三か月足らずで開通ということで、工事も毎日がんばっておられて、少しずつですが変化があります。
舗装はおおむね完了して、白線と標識も出来てきました。
右上看板の隠してある文字はたぶん、この先 ではないかと思いますが、トンネルのすぐあと分岐なので、
トンネル出口 かもしれません。隠さなくても良いのでは?



山沿いの経路なので、峰は斜めに切って崩れてこないように安定勾配を確保し、谷は暗渠にしたり橋を架けて跨ぎます。
上の谷の場合にはここまで大掛かりな橋を架ける必要は無いようにも見えますが、小さなダムが何段にもなっているように、
土石流が懸念されるため十分に余裕を持った流路断面を確保した物と思います。
(想像です。林道作業通路確保も兼ねているかもしれません。)



この近くには県立病院がありますので、救急車用の緊急退出路が設けられています。
左上写真の緑色標識は「救急車退出路」と「一般車両進入禁止」です。
右上写真ではその出口から一般道に接続する部分です。 退出路があるなら進入路や反対方向の退出路は無いのかとも思いましたが、
救急車はここからスタートするわけでないし、逆方向は地理的条件であまり時短にならないためと想像します。


また別の日に西方向も視察してきました。向こうの橋の手前高さ15m程には、工事前には公園がありました
さらにその数十年前にはここは山だけで住宅団地や公園もありませんでした。 
陸橋をくぐると不動沢を渡る橋があります。このすぐ下流には「大畑の滝」又は「不動の滝」があって、周回する歩道があり、
花見の名所でもありましたが、今はやぶに閉ざされています。冬場で藪も薄くなった歩道を通って帰路につきました。


2019.08.21 震災翌日から4日後までの映像公開
 東日本大震災から八年以上を経過して、被災地以外での危機感は残念ながら低下してきているように感じます。
写真や映像は未来へ記憶を繋ぐための重要な手段です。私も各種アップしてきましたが、震災当日を過ぎて撮影した映像は、
これまでYoutubeにアップしていませんでした。報道各社や「岩手は半歩 歩き出す」というDVDブックに資料として提供した物はありますが、
いつでも一般の方が見られる資料として、登録しておくこととします。

2011年3月11日(震災当日)から翌日にかけての主に旧釜石小学校校庭避難所の状況 
 ↓ 下写真クリックで動画ページへ



2011年3月13日から15日まで、啓開前後の釜石市内の状況  
 ↓ 下写真クリックで動画ページへ



2019.09.07 現在の釜石市街地復興状況 上空から

被災当時には無かった情報取得手段である、ドローンによる上空からの撮影が比較的手軽にできるようになりました。
とはいっても機材の準備、操縦習熟、法的な手続き、飛行計画の掲載等、それなりの準備をしての撮影になりますが、
30年ほど前に同様の映像を撮ろうと思うと、ヘリコプターの遊覧飛行が行われたタイミングか、チャーターするしかなく、
その場合には数十万円の出費が必要でした。 ドローンの場合には通常は高度150mまでという制限がありますが、
150mは東京タワーの第一展望台の高さで、町を俯瞰するには結構な威力を発揮できます。
 それでは街並みを観察してゆきましょう。なお、長く釜石を離れている人のために、震災前からの変化事項も掲載します。

 空撮写真1

釜石市街を縦断して流れる大渡川(甲子川)の河口から少しさかのぼったところです。
赤い鉄橋トラスは三陸鉄道の大船渡方面へ行くものです。JR山田線の宮古釜石間が震災から8年ぶりに、三陸鉄道のリアス線として復活するまでは、
南リアス線の名前で活躍していました。 津波の際にもこれらの鉄橋は被災することなく、被災直後は連絡歩道として活用した人も居るようです。
ただし三陸鉄道の他の区間で橋脚等が流されたところも多くありました。

 左端の湯気が上がっている煙突は、当時新日鉄釜石の石炭火力発電所です。津波で本体設備に大きな被害は無かったようですが、
燃料供給のベルトコンベアが寸断されたため、公共ふ頭に石炭を船から荷下ろしして、トラックで運んで発電を開始し、復興の一歩を支えました。
日本製鉄→富士製鉄→新日本製鐵→新日鐵住金→日本製鉄 と名前が変わって来た製鉄所構内には、今は1989年に停止した高炉をはじめ、
転炉・大型・コークス等々の工場は無く、線材が主な製品となっていいます。

一番下に見える橋は、最下流(自動車橋として)に架かる矢の浦橋の次に新しく架けられた橋で、千年橋と名付けられました。
右下に見える駐車場は、多分近くの商業施設の従業員用ですが、被災時、この辺りにはチョウザメの養殖施設があり、
キャビアも出荷していました。津波に現れたあとの街の中にチョウザメが乾いて横たわっているのを見ました。


空撮写真2

釜石駅周辺です。右寄りの青い細長い屋根はホームを覆うものです。ホームの右上方に黒い点とその少し上に横長の小さな楕円がありますが、転車台です。
転車台というのは、鉄道車両の方向を変えるためのものです。きかんしゃトーマスにもよく出てきますが、大抵の車両は前後両方向に走行できますが、
蒸気機関車については、構造的に高速で後進できるようにはなっていないため、折り返して運転をする場合には物理的に進行方向を変えてやる必要があります。
釜石駅にはこの設備が残っていたために、現在の夏季週末のSL銀河運行が可能になっています。

釜石駅舎は、ホームの左側の灰色の二階建てです。その上隣は、ホテルフォルクローロ三陸釜石、その隣はシープラザ釜石です。
そこから小さな陸橋を挟んでサンフィッシュ釜石がありますが、従前の橋上市場から移転した店舗(一部)と、飲食店などが入っています。

津波は駅前を通過して、上方のマイヤ釜石店のあたりまで達しました。 
ちなみに川の中を進んだ津波は、上流の五の橋の下を通過してさらに100m以上進んだ所まで遡上しました。


空撮写真3

釜石駅前から北東に戻る方向に進みます。橋は大渡橋です。
また下部少し右寄りにある薄緑に見える建物は、よく冠水する釜石駅前三差路を中心とした排水ポンプ場です。
大渡橋は架け替え前は、情報の交差点から、右下方向に向かって架けられていて上記ポンプ場の右側に交差点がありました。
橋の直近下流の両岸には橋詰広場があって、右岸には鮭のオブジェが、左岸には公衆トイレもあります。

津波はこの橋の左岸から、大渡町方向に流れ込みました。旧市民病院前の交差点では、只越町方面から、中番庫(現イオンのあたり)、そして大渡橋からと、
3方向からの濁流が押し寄せ、大きな被害・犠牲が出ました。


空撮動画
これまでの釜石市街地解説は、空撮動画を元にしていますので、全編を動画でご覧になりたい方は下の写真をクリックしてください




2019.10.03 陸前高田市の 東日本大震災津波伝承館


岩手県の沿岸部では最も大きな被害を受けた陸前高田市ですが、長く閉鎖されていた道の駅高田松原と、隣接して東日本大震災津波伝承館が開設されました。
上左の写真は、被災した旧道の駅の建物です。海に面した側はご覧のように階段状になっていて上まで行けます。
津波襲来時にはこの最上段まで駆け上がって助かった人が何人かいたという話を聞きました。撮影は表記日付ですが、被災当時のまま震災遺構として残すようです。
上右の写真も同じく震災遺構として残される5階建てのアパートです。超望遠なので手前のフェンスが入ってわかりにくいですが、4階までが全部水没しました。


上写真は向こうが伝承館。左背後が道の駅の建物で、同様のデザイン外観ですが、内容はもちろん違います。
右上写真は海側を望んだところで、緑の堤が再構築された防潮堤です。向こうまで歩いて行ってみます。


防潮堤の上にある展望台から二つの施設を振り返ったところです。海側は下左写真のようになっていて、
再生植樹された高田松原が広がっています。向こうには広田半島と、左には箱根山が見えます。南側では河口水門が建設中です。



歩道は奇跡の一本松の横へも繋がっています。 一つ気になったのですが、観光客用の避難経路図がありまして、それに従うと、
この一本松前から一度道の駅まで戻って2km以上迂回して高台まで歩かなければならない経路が示されています。
現地を見れば、まだ工事中の柵はあるものの、高台に通じる橋を経由する最短ルートが利用できそうです。
知らない人は30分も遠回りするかもしれません。


伝承館の中は、下手な報告よりも現物をじっくりご覧になることをお勧めします。私的に興味を引いたのは、
沼底の堆積物をボーリングした標本です。
入口近くにあるこの資料からは、過去に繰り返し襲ってきた津波の痕跡が、年代を追って確認できます。
岩手・宮城・福島の三県に一か所ずつ、国立の施設として設置されたものの一つですが、
訪れた皆様の防災に役立つことを願っています。


2020.03.13 南三陸町から浪江・双葉町まで
震災から1年と9か月ほど経った、2012年12月にも、自宅から宮城県沿岸部を経由して福島の相馬まで、
高速道を使わないで行ってみたことがありましたが、
あれからさらに7年を経て、町はどのように変わったのか、また変わることが出来ない部分へも今回は足を伸ばしてみました。

昼食に立ち寄ったのは南三陸町に出来た さんさん商店街 です。当時より10mほど嵩上げされた土地に出来ています。

思ったよりも縦横に広がりがあっていろんなお店が入っています。海鮮ものをいただけるお店が多いようです。
中央には雨風をしのげる無料休憩所などもあります。

私的に注目したのは、被災前後の大きな写真パネルです。
下側が被災直後、上は下の写真よりだいぶ広範囲ですが被災前のものです。
前回来た際にはまだ嵩上げ等がされておらず、「防災庁舎」も平地に残っていましたが、
現在は周囲の地盤が高くなっているようです。(近くへは行きませんでした)
陸前高田氏もそうですが、市街地は嵩上げした上に作られますので、
道路は配置しなおされますが、震災遺構は元のレベルにとどまります。
駐車場にも冬場にかかわらず車が結構止まっていました。


松島を経由して、閖上に来ました。前からあるのか、嵩上げしたところに建てたのか、神社と広場があります。
でも先の海辺まではまだ工事中で行くことは出来ませんでした。
海岸線の特異地形を訪ねます。少し南下すると 鳥の海 があります。
多分再構築された立派な防潮堤があって太平洋からの荒波を防いでいますが、水門は無いようです。

でも上写真のように、陸側に浸水を防ぐ防水壁があり、その一部は海のようすを透明な板越しに把握できるようになっています。
海が見えるということは防災の観点から大事です。津波で海面が上昇してもう少しであふれそうになっていても、
見えなければ知らずに平気で通行するからです。
右上写真は河口の奥に鳥の海と、だいぶ傾いた陽射しを望んだところです。


この日は新しくできた道の駅 かくだ を使わせていただきました。日が暮れることにはお店も閉まって、
駐車場には数台車中泊の車がいます。
翌朝までにさらに何台か増えていました。通行量も多くないので静かに休むことが出来ました。
新しいところはほとんどトイレが充実しています。
子供用ブースも増えてきました。こちらでは便器が壁排水型のものを採用しています。床の洗い掃除が楽そうです。
設備関係全般に言えることですが、使う人とともに掃除をする人のことを考えた設計が大事です。


相馬市の松川浦にやってきました。海沿いの砂嘴に作られた道は津波でどのようになったのか詳細はわかりませんが、
防潮堤を乗り越えたことは容易に想像できます。現在は普通に通行できるく状態に復旧されています。
上写真は流失した防潮林?の復旧のための柵と思われます。右上写真の右遠方に見えるのが鵜の尾岬です。


鵜の尾岬に連なる尾根はトンネルで通過しますが、直近に休憩スペースとトイレ・駐車場があります。Pキャンには良さそうですが、
標高の高い逃げ場所が無いので、津波を考えると長居無用かもしれません。
前回、松川浦大橋は残ってはいたものの一般車両の通行は出来ませんでした。
現在は自由に通行できて近くには水産関連施設等が出来ていました。


松川浦に立ち寄ったもう一つの目的は、すぐ近くにあるイチゴの直売所です。
長女からの情報で、10時開店ですが販売整理券を9時から配布するとのことです。
8時頃にはさすがに待っている人は居ませんでしたが、9時10分前頃に松川浦を回って戻ってきたら
たくさんの方が整理券を求めて並んでいます。
あわてて並びましたが、9時5分前頃に配布を始めて、35番をGETしました。
この後にもどんどん増えて最終は100番くらいは行ったのではないでしょうか。
並んでいると「津波到達地点」の表示が目につきました。(右上写真の中央上部) 
松川浦(海面)がすぐ近くで標高もあまりないので、ここもやられたらしいです。

「観光苺組合」なので、ハウス内での食べ放題もあるようですが、(1600円?)元が取れる自信もないのと
お土産にもするので箱買いにします。
整理券の番号順に販売建屋の中に入ると、テーブルの上に各種苺が入った箱がたくさん並べられていて、
買った次からどんどん補充されています。
一箱には一般のイチゴパック5〜6個分入っています。
価格は1000円〜1500円位ですが、形の良い逆三角形で赤い色のものが高額のようです。
おそらく味は比例しないだろうと踏んで、
自分で食べるのには、多少変形のある細長い形の物が安いのでそちらも買いました。
結果はやはり見た目と味は別のようで、オトクに購入出来ました。
箱の表面にに盛り上がって入っているので、フタをしたらつぶれるのではないかと思いきや、蓋の足の部分が斜めになっていて、
くっつくまでは入らず、イチゴがつぶれないで通気性を確保した高さで止まるようになっていました。
甘さも十分にあるので、そのままパクパク食べる生食用に向いています。
試しに潰して砂糖を加えたイチゴミルクにもしてみましたが、ウチの酸っぱい野生苺の方がそれには適しているかもしれません。


国道6号を南下して南相馬市に入ると、相馬野馬追の表示のあるフェンス等が見えます。
このフェンスの中には、周囲の状況から判断して、
除染された表土を置いておくものかと思われます。 また右上写真のような看板が増えてきます。その内容は、
この先は帰還困難区域で、自転車・歩行者等は通行できません とのことです。
また国道からわき道に入ることもこの先で出来なくなります。
自動車も駐停車禁止となっています。 


浪江町までは店も開いているのですが、双葉町に入ると雰囲気は一変します。
左上写真は双葉郵便局ですが、ポストがビニールで全体を覆われています。
もちろん閉鎖されていて、掲示板の中の張り紙も乱れたままです。
右上の写真は双葉町の国道6号ですが、開いている店はガソリンスタンドだけで、
通行する車はほとんどが除染土運搬のダンプです。

写真を撮るのをためらってしまいましたが、普通に車が置いてあると思って近くを通ると、
そのタイヤは空気が抜けてつぶれていたりします。
この辺りはまだ2011年の3月から時が止まったままになっていたのでした。
テレビ報道ではたまに目にしますが、自分の目で見て事の重大さを再認識しました。


浪江駅のあたりに戻ってきました。
この日はちょうど、不通になっていた常磐線の浪江以南が開通し、仙台から上野まで行けるようになった日で、
祝賀行事が等があったようです。ホームには仮装した人たちがたくさん居ました。


国道沿いにある浪江のイオンで昼食を買って車中でいただきました(店内飲食も可能)。かつ丼と鴨のローストが美味しかったです。


国道4号方面を目指して阿武隈山地を越えて西へ進みましたが、川俣町に出るまではほとんどが帰還困難区域で、
主な枝道や交差点には警備員の方が雪が降る中、立って誤進入しないように見張っています。
また左上写真のようにいたるところに除染物の保管をする用地が柵で囲われていました。
ナビの案内ルートで通りかかった合戦場の枝垂桜は、もう一月もすれば開花するかと思いますが、
この日は雪の花をたくさんつけていました。

私の住む岩手や宮城では、3.11は過去の災害で復旧途上ですが、福島では今現在も災害に襲われ続けています。


2021.06.05 釜石市鵜住居地区の復興状況
 
 手前の校舎は鵜住居小学校と東中学校です。浸水区域にあった校舎跡地は復興スタジアムとして活用されることとなり、
校舎は高台を切り開いて作られた土地に移転されました。右よりは鵜住居駅前周辺に設置された うのすまいトモス で、
鵜の里交流館・いのちをつなぐ未来館・釜石祈りのパーク 等で構成されています。 
その少し上方に見えるのが市民体育館です。  (空撮映像から切り出し)


ラグビーワールドカップの会場となった復興スタジアム             2021年中の全通を目指す三陸自動車道
 

6月1日から供用された 片岸公園です。広大な駐車場とトイレ棟があります。沼地は汽水域で、
近くにあった旧河道のみのすけ沼を模して構成されているようです。
 

根浜は釜石市内で最大の海水浴場ですが、その特長であった長い砂嘴は津波で流出し、河口には津波に備えた水門が設置されています。
周辺の堤防道路などと合わせて、人の通り抜けは自由ですので良い散歩コースです。
 

ゲート1門の重さは384トンで、それが5門並び、遠隔操作で閉止されます。 延長は180mあります。
 

下写真のうち、右寄りの黒っぽい部分は旧防潮堤でTP+6.4m。左側が14.5mで再構築されたものです。 
右下写真は水門説明板にあった被災前の状態ですが、
長い砂嘴のむこうを鵜住居川が左から右に流れ、河口は右端にありました。川の向こう岸に沿って旧防潮堤があり、
その内側には田畑と 旧河道である みのすけ沼がうねった形をしていました。
 
市街地は嵩上げはされたものの、まだ十分な街並みは戻っては居ません。
上空から眺めた映像はこちらにありますので参照ください。


2021.08.30 大槌町 イトヨとミズアオイの旧町屋地区

震災・津波のあと、しばらくボランティアで復旧の手伝いに各地に来ていた長男が、
三陸沿岸では概ね南の方が被害が酷い と言っていました。
その中でも例外で釜石と大槌は、大槌の方が北なのに被害は大きいとのことでした。
私が携わっていた業務分野担当の課でも、町の職員12名中8名(と記憶しています)が犠牲になりました。
また私の中学・高校の同級生も、低地の町役場前広場に設置した対策本部に居て無くなりました。

現在は三陸鉄道(旧JR山田線)の北西側は2mほどの嵩上げがなされて、新しい街路と街並みが戻ってきましたが、
一般住宅はまだ少ないのが現状のようです。
一方鉄道の南東側の旧町屋地区(?)は、以前から自噴する湧水が利用されていたところらしく、
近隣地区に居た淡水型のイトヨと、遡河型のイトヨが、津波による地形の変化で同所で棲息するようになった
貴重な例ということを報道では知っていました。
しかし実際に現地でどのような保護対応がされているのか知りたくて現地を訪れてみました。
 名称は「大槌町郷土材活用湧水エリア」となっているようです。
幾つかある池の合間を歩道が巡っています。


今も工事現場へ通うダンプが往来し、入口がわかりにくいのですが、新しくできた踏切から入ると駐車場が二か所あります。
歩き始めるとカルガモの一家が横切って行きました。どれが親か子かわかりません。
湧水は、川底から出ている物はよく見ますが、こちらでは被圧地下水が自噴していて、地上30cm程度までも出て来ます。
(居合わせた地元の方の解説による。以下同様)


右上写真のように、ポンプを使わずに湧き出している冷たい水があります。湧き出し口は200〜300箇所もあります。
イトヨは残念ながら目視することは出来ませんが、オニヤンマやシオカラトンボが飛び交っています。


イトヨと並んで貴重なのが ミズアオイ です。ここでは除草剤に耐性の無い数十年前の種子が、移動された泥の中から発芽して群落をなしています。
この花は一日花という事ですが、そうだとするとこれだけの数の花を一度に見られたのは貴重な体験でした。


2021.8.23 釜石港グリーンベルトの見学

 釜石港グリーンベルトの概要については、説明板の写真でご覧ください。
下図の緑色の部分が整備された所ですが、昔はここに旭町の飲み屋さん街などがありました。
井上ひさしが釜石市に住んでいたころの経験も踏まえたの小説にも出てきますが
釜石製鉄所が高炉を始め盛んに稼働していたころには活気に満ちていたようです。


震災後にその街並みは、新たな避難路・防災の一環に姿を変えました。 下の写真(2019空撮)でも緑色に見える部分がベルトの南端になります。
釜石高架バイバスは、低地は津波に呑み込まれましたが、橋脚等は大きな損傷は受けず、
私も翌日朝には写真の左の方から中間あたりまで車で来て、その先右方向(南)へ徒歩職場に向かいました。


グリーンベルトの上は気持ちの良い歩行路になっていますが、自宅からは遠いのと出かけるときは車なので
今回初めて現地を歩くことが出来ました。(取材は2021.08.30) 高架バイパスと並行して歩いてゆきます。休憩施設もあります。


グリーンベルトは港と市街地の間に形成されているため、主要道路や産業用のベルトコンベヤーなどと交差する部分もあります。
ゲートが設けられていてその上を歩いたり、コンベアの上は軽荷重用の人道橋だったり、バイパスの下をくぐったりして道は続きます。
高さは最低箇所では8mとなっています。 先の津波の釜石港到達TPはたしか9.7mと覚えていますが、
もし、同じ高さで来た場合、グリーンベルトの最高地点は12mなので、逃げる途中でそこを通過するのは状況判断が重要になりそうです。


グリーンベルトの南端は矢の浦橋付近の既設国道の高さになりますので、その辺りからの直接の津波侵入を抑えることは出来ませんが、
中心市街地への到達を遅らせたり減衰するのには効果がありそうです。
記録映像を見ると、市街地に3方向から侵入した津波の先端が合流したのは、旧薬師公園下の交差点でしたので、十分効果が発揮できるかと思います。
北端には、高村光太郎の作品「三陸廻り」より引用した、「やがて船はもういいというように勢いよく汽笛を鳴らして釜石港の午前六時に挨拶する。…(以下略)」
を刻んだ石碑があります。従来からある避難道路に近い辺りは、地盤が嵩上げされていて、そこへ接続されてグリーンベルトは終わります。


市街地を回って、大町広場・市民ホールのあるところまで戻ってきました。 左下写真は市民ホールTETTOの前ですが、
向かいにある交流センターまでの広場には屋根がかけられています。
計画を練る段階で話し合いに参加させていただいて、ここに屋根をかけるという案を出しましたが、
設計事務所の考えも同じだったということではあります。
右下は広場で、木製デッキや一部座れるようになっていて、市民ホール催事での昼休みなどにお弁当をいただいたりするのに好適です。

失礼な言い方ですが、一番「釜石らしくない」エリアかもしれません。


2022.01.14 気仙沼から石巻へ

三陸自動車道が全通して、八戸から仙台までの往来がとてもしやすくなりました。宮城県へも、岩手の三陸沿岸からすると、
これまでは東北自動車道経由が普通だったのが、三陸道経由をよく利用するようになりました。
岩手の県境にある気仙沼市は、大島との連絡橋と気仙沼湾をまたぐ横断橋の二つが完成して、復興にはずみがつきそうです。

  下写真の奥が大島、 右下写真は奥のアーチ橋が気仙沼大島大橋(鶴亀大橋)、手前の斜張橋が気仙沼湾横断橋(かなえ大橋)です。


 気仙沼市には、実は震災(2011.3.11)の10日ほど後の予定で、一泊で退職の送別会をしてもらう予定だったのですが、
 混乱でキャンセル連絡もしないまま、1年の退職延期(=震災対応業務従事のため)となったのでした。
 市街地と湾を見下ろす安波山展望台に上ってみました。震災時、湾内は火の海になったようですが、
この高台から悔しい思いをしてみていた方もいたかもしれません。きれいに整備されて入り口には竜の像があります。


 冬季ですが、整備されたトイレには明かりが灯っていました。 この日は気仙沼大島ウェルカムターミナルで一泊としました。
 大島の亀山展望台レストハウスへは直近までは車では行くことができないようになっていましたが、冬季は開放してもよいような気がします。
 少し下に有料駐車場(自動・無人)があって、これも灯りがまぶしいくらい点いていますが、どなたも利用はされていないようでした。
 市内のシャークミュージアムに隣接して、おかえりモネの展示があって来訪する方もいらっしゃいましたが、
 市内各所の車両や駐車場の管理は柔軟におこなってもよいように思います。


翌朝は三陸道を南下して石巻にある「みやぎ東日本大震災津波伝承館」を訪ねます。
震災では岩手・宮城・福島が被害が大きく、各県に国営で伝承施設を1箇所ずつ設置するもののうちの一つと理解しています。
日和山公園より海寄りの地域は、多くの人が暮らしていたようですが、大きな被害を受けた区域でもあります。
そこに 石巻南浜津波復興祈念公園 が整備され、その一角に伝承館が作られました。


こちらの館の構造は、大きな丸い円板屋根を多数の柱で支え、周りをガラス張りにしてあります。
大部分の展示はホールにパネルやディスプレイを細かく並べていて、大きなパネルやテーマ別の説明を貼り出した壁は一部です。
映像による展示もありますが、光がその区画中に入る構造のため、映像内容の視認性がよくありません。
3県の内で一番大きな人的被害を被った宮城県に設置された施設としては、もっと掘り下げたものでもよかったのかなと感じました。


各種資料もありまして、青森から福島までの各県の「伝承ロード」(各県別に色分け)もいただいてきました。
各市町村ごとにも設置されている伝承・関連施設を他の見どころとともに紹介しています。
これまでに岩手から福島までの海岸線を、震災後に何度か通って見ていますが、やっと伝承施設が出そろいつつあります。


館外に出て、小高い海の見える展望台に登った後、背後の高台まで歩いてみます。震災遺構の旧門脇小学校も外周をまわって、
散歩・体操中の人に道を聞きながら、日和山公園を目指します。

↑旧門脇保育所の基礎だけが残っていました(説明版内容別記)

道に迷いそうになりながら、門脇小学校の子供たちも多分通った道をたどって、日和山公園までやってきました。
公園の一角に面白そうなお店がありました。石巻焼きそばののぼりと、各種お面がかざってあります。
金兵衛茶屋というらしいです。今度はこちらのお店にも入ってみたいものです。


近くには大きな鳥居と神社と急な階段(石段)があって、小中学生?と親と先生たちがトレーニングなどをしています。
またこの日和山は、芭蕉や宮沢賢治も訪れた名勝のようです。帰り道はこの階段から戻りました。

テレビ報道で、この日和山公園に避難した人たちの映像も何度か見ましたが、どんな思いで津波に呑み込まれる街並みを見ていたのか・・・。
でも街並みはまた作ればいいのですが、人的な犠牲は戻すことができません。とにかく助かること、助けることが最優先です。
私も携わった業務分野での経験を各地でお話しさせていただきましたが、その業務分野も作れば戻るけど、
人命は戻せないということをいつも話させてもらっています。

※ この公園の展望所にある案内板からの転記です

 日和山は、松尾芭蕉、石川啄木、宮沢賢治など多くの文人墨客が訪れた、石巻のシンボルです。目の前には広く太平洋が広がり、牡鹿半島、遠くには蔵王連峰、そして時には相馬地方の山並みまで見ることができます。そして春には桜、ツツジの名所として多くの市民が訪れる憩いの場所でもあります。
 標高約56mの小高い山は、2011年3月11日東日本大震災当時、数えきれない人が避難した命の山となりました。そして避難してきた人々は、降りしきる雪の中、信じられない光景を目にします。高さ6mを超える大津波が目の前の街並みや車を押し流し、同時に発生した津波火災によって燃え上がる街の景色です。人々は、絶望感とともに家族、友人の無事を祈りながら夜を明かしたのです。


※ 先の旧門脇保育所説明版からの転記です
〈震災当時の保育所長からコメントを頂きました〉
 門脇保育所は、四季折々の花が咲き、0歳児から5歳児の子供たちの元気な声が響き渡る、みんなが仲良く遊ぶほのぼのとした保育所でした。
 平成23年3月11日のあの日、経験したことのない揺れ、けたたましいサイレンの音、一刻も早く子どもたちを安心できる場所に。1.8km離れた山の上にある石巻保育所への避難を決断するのに、時間はかかりませんでした。子どもたちが出発したのは15時15分、0歳児はおんぶ、1,2歳児は避難車に乗せ、3歳児からは走る。毎月行なっていた避難訓練のおかげで子どもたちの行動も早く、坂道を懸命に避難し、15時50分頃石巻保育所に到着しました。
 かつて、ここに保育所があり、あの日 子どもたちと職員が避難したこと、そして、この地をおそった津波の被害を伝えるため、震災後も残った水色の小さなプールと保育所の基礎を残すことになりました。



2022.03.11 南三陸から  宮城沿岸の現在
南三陸町、志津川のさんさん商店街です。 何度か訪れていますが、流されてきたモアイ像があることは知りませんでした。
隣接して道の駅と伝承施設を建設中です。(下写真、奥の方)


以前来訪時に、この橋は建設中で、何の構造物かわからなかったのですが、さんさん商店街と震災遺構の「南三陸旧防災対策庁舎」
を結ぶ歩道橋でした。3路あって、中央通路が一度下がってまた上がる経路で、両脇の通路はその逆です。


ちょうどこの日は震災から11年目で行事が行われた後でしたが、TVクルーがまだ残っていて、捕まりそうなので遠巻きに見学します。
来るたびに土地の形、利用状況が変わっています。11年を経過してもまだハード面での復興は完了していません。
旧防災対策庁舎も訪問する人が絶えません。ここと、旧大川小学校へは、私はカメラを正面から向けることができません。



旧大川小学校の近くで、子どもたちが「避難」に向かった橋の交差点の近くを通って、新設された 道の駅硯上の里おがつ に来ました。
雄勝 と書いてここでは おがつ と読みますが、秋田県南にある道の駅は おがち と読みます。硯の材料の産出地らしいです。
隣接する漁港とは相当な高低差がある盛り土の上にありますが、行政施設等はさらに背後の山の中腹にあり、途中の道もまだ工事中です。


設備も立派で商業施設も充実していますが、夕刻着で朝に出発のせいか、車中泊したのは私たちだけのようでした。


帰途には仙台市の荒浜地区も見ました。集落があったようですが、建物の基礎だけが遺構として残っています。
海岸から標高差のない(=逃げ場所のない)地形が続きますので、何か所も避難タワーや、土塁の頂上に東屋がありました。



2022.04.09 いわき市の震災伝承館へ
 伝承館へ向かう前に素敵なパン屋さんに立ち寄ります。フルーツサンドもあります。味ももちろんおいしいのですが、
駐車場の造りも含めて、お店の雰囲気作りにも気を使っています。


海沿いの道を進んで、いわき震災伝承みらい館にやってきました。海水浴場に面して少し盛り土した上に建てられたようです。


昨年は双葉町にある原子力災害伝承館を見学させていただきましたが、こちらはいわきを中心とした説明になっています。
被災した各自治体の地道な取り組みも今後の備えに重要なものであることを感じます。
将来的には各施設とも伝承風化対策と施設の更新が課題になってくるかと思います。


屋上の展望台からは大海原と海水浴場が広がります。 このあとも各地の伝承施設を見学していきたいと思います。


福島・いわきからの帰路に立ち寄った、宮城県名取市の閖上朝市です。何か所かある駐車場があふれるくらい人がやってきます。
常設営業の建物と、日曜午前だけの長屋状のお店があり、外で焼いて食べることもできます。


半分ほどは海産物のお店で、この日の朝食に 牡蠣丼600円・セリ鍋350円・水餃子 をいただきました(右下写真)
このほかに、あなご味付3本で1000円、アンコウ肝あえ・タコ頭味付け・鮭のマリネ 3パックで1,000円も家で食べるように購入しました。

閖上や南三陸などの地域は、あの震災がなければ、今でも訪れることは無かったかもしれません。
たまに立ち寄って、海の幸などをいただきながら、復興の一助になればとおもいます。


2022.04.25 どんりゅう庵のカレー
隣町の大槌駅です。駅舎の形は、ひょっこりひょうたん島を模した屋根になっています。
駅前広場に面して数件の飲食店街とともにどんりゅう庵があります。入り口は、のぼりがあるところですが、
開店直後でまだのぼりが出ていなくて、わかりにくいので店を一周してきました。


お店のデザインは、下写真の帆船のイメージだそうです。周囲(舷側)に小さい窓gたくさんあります。上部にも窓があるのと、
白壁のおかげで店内は明るくなっています。 こちらの店舗へは初めてですが、町内が復興で地盤をかさ上げする前の
震災間もないころに、仮設店舗で営業を始めたころに来たことがありました。


今回は、新聞に開店10周年記念で、カレー300円!がありましたので二人で出かけてみました。
以前はたしか黒っぽい色のカレー(黒船カレー?)が名物だった気もしますが、
今のメニューでは「ひょうたん島カレー」(右下写真・600円)の半分が黒船カレーの物(700円)があります。
このひょうたん島カレーも写真をよく見るとわかりますが、ルーの種類が半分に分かれています。(多分トマトとポーク)

カレーライスが嫌いな人は多くないと思いますが、私も好きな方です。コーヒーゼリーにホイップクリームが載ったものがついて、
コーヒーが無料でいただけます。クッキーのお菓子もおまけでだしていただけました。
おいしいカレーと併せてオトクです。でも私はコーヒーが飲めないので、クリームだけ食べてきました。スミマセン



(つづく)