2011年3月11日、東日本大震災に伴う津波が来襲した区域内に、
普段我が家のコルドバンクスは駐車しています。
確率的には150分の1くらいで助かった(その経過)この車は、その直後から目一杯、
私や周りの人たちを助けてくれました。
テレビでも災害時に役に立つ車として改めて報道されている例があるようですが、
実際に活躍した報告はあまり例が無いと思いますので
具体的にどのように役に立ったのかを説明してゆきます。
全体の(更新情報はこちらに掲載されます)
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1. | 情報の入手 | |
大きな災害時には、各種インフラ(道路・電気・水道・通信・放送・ガス・下水道・・・etc)が機能しなくなります。当地もそうでした。 地震が来ただけの時点では大丈夫でした。ですが津波が来てそれらインフラに関わる設備をすべて呑み込んでしまいましたので、そのあとは全てが不通になりました。停電のためテレビからの情報も入らなくなりました。 とりあえず直接の被害から免れた人たちにとって、お腹が減ったり喉が渇く前に、世の中がどうなっているのかが知りたくなります。そうでないと次にどのように行動するべきかが決まりません。最初は歩いて現地周辺の状況を確認して回ります。ですが今回はその行動可能範囲が極端に狭い状態となりました。国道にも瓦礫が山積みとなって、5mも進むことができません。 室内に取り付けた26型テレビ → |
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ラジオ(電池駆動)を持参してくれたものがありましたので、役に立っていました。しかし被災現地の地上からの取材が出来ないために、内容は同じものの繰り返しが多くなります。 テレビはどうでしょうか。ケータイのワンセグで見ることはできますが、電池の消耗が心配です。ケータイの通信が回復した場合に利用する分の電池容量を残しておかなくてはなりません。 3月11日の夜は小学校跡の空き地で大勢が集まって立ち通しのまま、瓦礫を燃やして暖をとりながら朝を迎えましたが、翌12日の夜には時折車に戻って各地の状況をある程度確認することができました。でもやはり取材の方が付いて行きませんので、入ってくる情報は通信途絶の前のものか、空撮によるものを、何度も繰り返している状態でした。 ともあれ、車載のラジオ・テレビは停電時には重要な情報入手ルートになります。「歩いて逃げろ」が原則ですが、状況により、避難場所までに渋滞などが無く、車の方が早く到達できる場合でかつ、震源地までの距離があって津波到達まで余裕のあることが確実である場合には、以下に記載の様々な面で役に立つ道具であるということは認識しておく必要があります。 |
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2. | バスの出庫 | |
バスの出庫とはどういうことかを説明します。釜石市の庁用バスは市庁舎から数キロ離れた、津波が到達しない区域の車庫に保管してありました。道路が順次 啓開(不通だったところの障害を取り除いて開通させること)されてゆくと、人員輸送に使うバスが必要になります。 後に民間のバスも被災しなかった区域から借り上げ動員されますが、当該自治体のバスをまず運行させることは絶対に必要でした。 ある程度の道具と技術を持ったスタッフとして車庫に向かいました。問題は停電のため車庫のシャッターが開かないことでした。 普通は停電時用に手動ハンドルがありますが、窓から車庫内部に忍び込んで方々探しました。やっと見つかったのですが噛みあい部分が割れて壊れていました。本体差込口をバイスプライヤーで回そうとしましたが、うまく噛みません。 次に電源をコルディーから引き出す作業を始めました。インバーターから100Vを取り出して接続します。当然延長ケーブルも常備しているものが役に立ちます。 ところが回路が故障しているのか、必要電流が大きすぎるのか、20Aのブレーカが落ちてしまいます。 電動シャッターには、非常時用に手で駆動できるような仕組みが必ずあります。巻き上げ収納ボックスの横に手回し用のチェーンが丸めてあるはずです。ボックスは高所にあります。ところが近くにはしごなどはありません。 |
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↑「救出」されて業務に向かう2台のバス | ||
そこでコルディーをシャッター前に横付けしてルーフにあがりました。ボックスのフタを開けると中にやはりチェーンがありました。しかしさびて断線している部分が多いので、使えそうなリンクを集めて短いチェーンループを再構成しました。 全体の長さが足りないので、地面から操作することはできません。ルーフの上でそのままチェーンを回す作業をすることとなりました。3人が乗って、交代しながら、幅広のシャッターを揚程3.2Mほど、汗だくになってあけることができました。 こうして出庫できたバスは、夜間は避難所要員の仮眠場所として、昼には非難してきた「釜石の奇跡」で逃れた生徒たちを他の中学校に移動させたりすることに走り回ることができました。 キャンピングカーの高い車高と道具と応用知識によって動かすことができたものだと思います。 夜間は右上写真のように氷が張る冷え込みでしたので仮眠場所があることはスタッフにはとても助かりました。 |
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3. | 衣類 | |
人が生活するのに基本的に必要なものは「衣食住」です。自宅に居れば衣類については避難時に持ち出し・着用して備えることができますが、職場や出先においては通常は対応できませんので災害が発生した時点での服装ですごすことになります。 私はこの時スーツ上下と革靴で業務中でした。一応コートも持っていましたが、靴だけ見ても底部も上皮も断熱性は期待できず、総合的に見て防寒には不十分なレベルでした。 キャンピングカーには、いつも山歩きの道具をある程度積んであります。右写真のバンクベッドの部分に普段はザックなどと一緒に入浴用の着替えまで含めて全身用の衣類と雨具があります。 外部との連絡が途絶えた時点で長期戦を覚悟しましたので、靴はスニーカー・・・はありませんので登山靴に変えました。耳まで覆う帽子と手袋をして屋外で幾晩かをすごすことができました。 |
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避難所の体育館内で働いていたスタッフが、避難者の中に着るものが無くて毛布だけに包まっている方が居るということで、衣類が無いか探していたので、妻用に用意していた上下の衣類を提供することもできました。 しかし全ての分野について言えることですが、キャンピングカーで対応できることは当然ながらせいぜい数人までの分です。そこは致し方の無い部分ではあります。 |
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4. | 食糧の確保 | |
避難所には最低限の食糧や毛布が備えてあります。乾パンの缶詰やペットボトルの水などで、1晩目は何とかなりました。といっても食べるのを遠慮しているということもありました。私が詰めたところには一時1000人近い人が入りましたが、初めは乾パンにしても一日に2人で1缶といった状態でした。それが交通が何とか迂回しながらも回復して緊急援助物資が届くようになると次第に改善してきました。 DVDボックス「岩手は半歩 歩き出す」に映っていますが、この時沿岸部にあった店舗や食品工場のリーダーたちは、被災各地に食料を配布するために奔走していたようです。私の居た所にも大船渡市に本社のある さいとう製菓のトラックが来て かもめの玉子を置いてくれました。こちらの社長もDVDに登場します。飲み物も次々と来ました。 スタッフはその袋や梱包を取り外して大きな袋に入れ、人数と勘案して何個ずつ配るかといった作業をしました。その「平等に行き渡らせる」という点が重要であるため、やや遠くの供給が無い避難所から来た人にもすぐにはあるものを配るという判断ができず、迷惑をかける場面がありました。 飲料水については、市街の西部は被災しませんでしたので、そこにある主な水道水源についても被災せず、トラックで配布用の水嚢に入れたものを配ることが出来ました。また山間地の集落が多いため、沢水の利用が可能で決定的な水不足には至らなかったようです。 スタッフ自身は、こどもたちや老人優先であるため、食べ物については余裕があればいただくという程度でした。そんな中、隣の遠野市から数千個のおにぎりが届きました。各町内会に呼びかけて作ったものらしく、大きさも味付けも箱ごとに違っていました。まだ温かさが残っていました。私は3日目におにぎりをいただくことができましたが、これが最高のご馳走でした。遠野市にはボランティアの継続的な手配を含めほんとうにお世話になっています。 ※右のDVDボックス(1500円)必要な方は取次ぎしますので掲示板からお知らせください。私の撮影した映像も入っております。 |
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さて、キャンピングカーが食料の分野でどのように役立ったかという点です。何食分かの食べ物は積んでありましたが、私自身に関して言えば、当初は食べなくても何とかなりました。だんだん援助物資が届くようになって、スタッフにも配布されるようになったので、車載食料にはあまり手をつけないで済みました。4日目にある程度復旧作業にかかれるようになってから、食事にありつけなかった時に同僚に供給したりすることができました。 |
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5. | 睡眠 | |
初日は屋外で立ったまま、がれきを集めて燃やして暖をとりながら朝を迎えました。(右写真) 2日目以降は仮眠をとるために「2.」に記載したバスの中でスタッフは仮眠をとることができました。 キャンカーにも同僚を入れて仮眠をとることができました。 私の場合には自宅は被災地外で無事で、4日目には帰宅することが出来ましたが、仮に自宅が被災した場合には、避難所以外に寝る場所が無くなりますので、家族が過ごす場所として役に立ちます。 実際にキャンピングカーメーカーのバンテックでもシャシーの付かない架装部だけを何台か避難所として供給していたようです。 |
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6. | 積載物 | |
積んである物のうち、衣と食については前述のとおりですが、積載物の中で最も役に立ったのはライトです。ヘッドランプを5個、ランタン兼用のライトを1個、予備電池を何個か積んでありました。11日の夜には近くの住民救助のために車や瓦礫が重なった中を越えて行ったり、スコップ等の資材を停電した中で運び出す際に使用しました。また同僚や必要な人へ貸したり提供しました。 ザックと工具類も、最初のうちは移動のたびに持ち歩いていました。のこぎりやゴム手袋やツールナイフ、ペンチなどです。何度か使う場面がありました。 消毒用アルコールは、水が豊富に使えない状況では、手指を衛生的に保つためにはやくに立ちました。 |
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7. | 身の回り用品 | |
顔を洗ったり歯磨きをしなくても、お風呂に入らなくても、絶対困るということにはなりません。いえ、災害時の一次避難時にはそれは出来なくなります。我慢せざるを得ません。 でも身の回り事項でとても困ることが、人によってはあります。コンタクトレンズを使っている人です。ケア用品を持ち歩いている人は少ないと思います。(私はバッグに入れて歩いていますが) 家に帰られなくなると、睡眠時にレンズを取り外して保管する方法が無くなります。最初の晩(3.11)は完全徹夜でずっと起きていましたのでレンズは外さなくて済みましたが、仮眠をとるようになってからは何とかしなくてはなりません。 キャンカーにはケア用品も積んでありました。この面でも助かりました。 |
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続く・・・ | ||
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