「リボーン アート フェスティバル in 石巻」  2017.09.08
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 私よりも催し物などへのアンテナ感度が高い長女から、妻におススメがありました。石巻市で行われている「リボンアート」に行きましょうとのことでしたが、内容を尋ねると良くわかりません。私なりに想像をたくましくして、バルーンアートの親戚みたいな技を競うものか、はたまたオリンピック関連で各種競技の紹介番組もあったことから、新体操競技で華麗にリボンを振り回しながら、ついでにボールも高く上げて受け取るのかなーと思い浮かべていました。でも直前になって紹介サイトなどを案内されてみたら、まさに「アート」でした。それぞれの作家が思い思いの表現で展示・提案しています。時間の関係で一部しか見られませんでしたが、印象に残ったものを紹介します。
 
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 岩手の沿岸部から宮城県の仙台へ向かうには、一度内陸部の東北自動車道に乗るのが早いです。が、石巻市へは少し違います。最近復興道路の三陸自動車道建設が区間を伸ばしてきて、海沿いに南下するのが早くなりました。でも歌津町のあたりは、未だに狭いう回路(旧道?)の通行を余儀なくされて、大型車は譲り合いで片側通行になります。震災から6年半を経過しても歌津大橋は復旧していません。陸前高田の気仙大橋もまだ仮橋ですが、機能上はさほど不便なく通行できるので、違いを感じます。
 石巻を代表するキャラクターと言えば、石ノ森章太郎の仮面ライダーを始めとするヒーローたちですが、町の中を歩いてみると随所に配置されています。
 オフィシャルショップと総合受付的な役割を持つ旧観慶丸商店に最初に入ります。
 長女のおススメは、アーティストグループ「目」が制作した『repetition window』の体験ですが、一回の定員が8名で、一日に数回しか参加できません。申し込み受け付けは9時からのようですが、到着は10時になってしまいました。ダメ元で聞いてみると、なんと!14時からの枠で2人分残っているということで、早速申し込んで、それまでの時間を牡鹿半島中部の展示と、駅付近のアートを見て回ることにしました。
 上の写真は repetition window の5回の案内全てが満席になった表示です。左の写真は会場へ向かう通路です。狭い、雑多なものが置かれた、物置風の所を歩いてゆくと、靴を脱いで袋に入れて、奥の部屋に案内されます。
 右の写真はお部屋に最初に通された時の眺めです、古い日本家屋ですが、強いて言えば和室というよりは、左右の両側に縁側がある渡り廊下風の場所に椅子が並んでいます。そこから始まるのは… 下の写真クリックで動画が始まります。

 家が動いた!驚きと、対向車や町の人たちのえっ!?という視線が快感でした。
 一番のお目当ての、まさに目の予約が取れたので、集合時刻の14時までに行って来られる牡鹿半島中部にある荻浜の展示に向かいます。
 日によっては12時頃は満車で入れなくなるという駐車場ですが、大丈夫でした。でも前日の雨で水溜りが出来ていて、スタッフの方が大きなスポンジや一輪車を使って排水作業を行っています。どんなイベントでも、裏方の活躍がとても大事です。そこをきちんと評価しないと、表面的な成功に終わることがあります。
 小さな半島の先の方にむかって未舗装路を進んでゆくとArtの展示があります。でも。正直言ってよくわからないものもあります。芸術は全て、受け取る側との関係で成り立つものだと思うので、人によって波長が合ったり、ノイズだけに感じたりして当たり前です。

公式のGooglemapに配置した会場図ではこの辺りです

 白い鹿の像は、さすがに公式ポスターに紹介されているのでわかりますが、その他については作品ごとの紹介板を見て、ふ〜ん、そうなのか…とわかる場合も多いです。

 下の二つは洞窟の奥の方に部屋があって保護天井板の下をヘルメットをかぶって見に行くと、映像が時々映し出されます。
 上も小さな行き止まりの洞窟に漁業用のブイが雑多に並んでいますが、震災の爪痕ではなく作品のようです。
 右上は海上保安庁の観測機器かと思いきや、作品の足漕ぎボートです。
 右は使われなくなった牡蠣棚?でしょうか。紹介板が見つけられなかったので多分作品では無いと思います。
 10分ほど歩いてゆくと、この展示エリアで一番奥にある、浜辺の小高い丘になったような所(もしかすると人工又は牡蠣殻で盛り上がっている)に白い鹿の展示 White Deer (Oshika), が見えてきました。
 近づいて行くと写真ではわからなかった、その大きさと造形からくる迫力で、しばし見とれてしまいました。みなさん、かわるがわる写真を撮っています。でも自分たちを入れて撮るとなると、人物との大きさの違いがありすぎて、どうしようか悩みます。人物を近くに配置して、両方にピントが合うように絞って、ストロボで逆光を補正して、構図を確認して… と、処理することが沢山ありすぎて、誰かに頼む(三脚を持ってこなかった)には難しいので、普通に自動で撮るだけにしました。
 「目」の予約時刻は14時ですが、勝手に勘違いして13時までに集合できるように石巻の駅近くに戻ってきてしまいました。 

 日活パールは、震災で浸水・被災したにもかかわらず、3か月後には営業を再開して2017年の6月まで(リボーンアート開催の直前)営業を続けていた映画館です。上映していた内容は、私も好きな分野なのですが、最近あまり見かけることが無いなと思っていました。係の人に聞いたところでは以前の作品などを上映していたそうです。でも日活では復活する流れもあるようです。下の写真は実際に6月まで掲示されていた内容だそうです。
 映写室は2つあって、一つの客席を取り払って展示スペースにしてありました。浸水高さまでを半透明の造形で覆って、その上の空間は元のままで、映写機の位置から、作成したパネルに照明を当てています。
 こちらでは係の人がいて解説をしてくれています。他の展示カ所と違って、ただの入場チェックではなく、展示に係る意義や内容の説明をしていただけました。でも次々と人が来るので説明の全部を聞くことは難しく、なにより私が時間を勘違いして早く出なくちゃと思っていたので、よく聞かないでしまいました。一角にPCで映像素材を提供する仕掛けがありましたが、これはVRで、長女からおススメが出ていたのですが、失念して視聴しないでしまいました。
 しかしながら説明していただいた中で、この会場に関する掲示がこちらにありますということで、内容(右下写真)について、多分ゆっくり読んだ方は少ないと思いますので、撮影した画像から文字に起こしてみました。二段下に、紙面の内容を記載します。(もしこのことに不都合がございましたら掲示板からご連絡ください)

 【日活パールシネマ小史】


 石巻には、幕末の頃から続く豊かな劇場文化があった。市内には歌舞伎座が立ち並び、客をとりあって大いに栄えた。大正に入ってから歌舞伎座は映画館に変わり、東映、松竹、海外映画などを上映して市民の鑑賞眼を養った。戦後のピーク時には、19もの映画館が営業していた。
「日活パールシネマ」(以下、パール座)の開館は1957(昭和32)年だが、前身は1926(大正15)年に開業した「石巻歌舞伎座」である。明治30年頃、この地で酒造業をはじめた清野太利右門が、町の公会堂的な役割を兼ねる劇場として、自宅の筋向いに回り舞台付の本格的な劇場を建設した。当時では珍しい、鉄筋コンクリート2階建て(石巻市史による)の芝居小屋で、歌舞伎や新劇の上演で賑わったという。
 幼少期から劇場の手伝いをしていた清野太兵衛は、芝居から活動写真へ、弁士からトーキーへと、めまぐるしく移り変わる劇場文化を目の当たりにしながら、自然と興行への道を歩んでいった。
 石巻歌舞伎座は1941(昭和16)年、経営不振のため競売にかけられ、清野一族は興行から手を引くことになるが(石巻歌舞伎座は星澤喜兵衛が買い取り「文化劇場」と改名。1972年閉館)、それでも興行の夢を諦めきれなかった清野太兵衛は、1951(昭和26)年に木材の統制が解除され、材木が払い下げられたのを機に劇場を建ててしまう。しかし、フィルムを貸してくれる配給会社がなかなか見つからず、しばらくは「パールダンスホール」として営業していた。
 その後、ようやく見つかった配給会社から廻されたのが洋画フィルムであったため、洋画専門の「パール映画館」としてオープンしたが、日活のチェーン展開にあわせて「日活パールシネマ」と改名、当時は日本映画最盛期であり、再映でかけた石原裕次郎映画には、連日入りきらないほどの観客が押し寄せたという。
 パール座は、まさに日本映画興行のピーク時に開館していた。パール座開館の1年後である1958(昭和33)年、国内の映画観客は11億2745万2千人という数字を記録しているが、これを頂点として、その後はみるみる少なくなり、わずか5年後には半分にまで落ち込む。60から70年代のテレビ黄金時代、映画興行が深刻な打撃を受けるなか、1971年に日活は成人映画に活路を求めて「日活ロマンポルノ」を立ち上げる。パール座も、それに合わせて日活ロマンポルノ劇場としてリニューアルすることになった。
 80年代後半からは普及しはじめたレンタルビデオ店、2000年代からのシネコン進出などにより、ほとんどの既存の劇場は閉館し、その役割を終えてしまった。そしてなにより、2011年3月11日の東日本大震災は、細々と営業していた石巻の劇場たちに、深刻な被害をもたらした。
 パール座も3月11日に被災し、2.5mの高さまで浸水した。壁にくっきりと残る痕跡はいまでも生々しく当時の状況を伝えている。浸水被害でこの「シネマ1」は劇場として使えなくなってしまったが、それでも清野は懸命に復旧作業に取り組み、わずか3ケ月後には「シネマ2」を再開。パール座は、2017年6月25日の閉館日まで、幕末から連なる石巻の劇場文化の、最後の生き残りとして営業を続けた。清野はすでに89歳になっていた。

  「地球をしばらく止めてくれ、ぼくは映画をゆっくり観たい」

 このパール座が、リボーンアートフェスの展示会場に決まるまで、様々な紆余曲折があったと聞いている。いくら歴史がるとはいえ、ポルノ映画館である。行政が主催する芸術祭の会場としてふさわしいのか、という懸念もあったという。一方で、パール座の側としても、今までさんざん石巻の「恥部」扱いしておいて都合のいいときだけ……という思いもあっただろう。
 しかしそんなことは、パール座が、石巻の劇場文化を担ってきた最後の砦であったという事実(※「日活パールシネマ小史」参照)に比べれば、実に些細なことである。インターネットでパール座について検索してみると、真っ先にヒットするのは、セクシャルマイノリティたちが情報交換する掲示板である。パール座は長らく、彼ら彼女らの憩いの場、出会いの場でもあったのだ。震災後、わずか3ケ月でパール座が再開したことを誰よりも喜んだのは、そのような「常連さん」たちであった。
 映画館の暗闇は、日常世界から隔離された別の時間、別の空間を確保する、最も身近な場所のひとつである。だとすれば、パール座が劇場として、そしてアンダーグラウンドなコミュニティとして、60年近くも維持されてきたということこそが、石巻の文化のハード・コアにほからならない。このような場所を、石巻の文化の中心としてとらえることのできない芸術祭に、意味は無いだろう。なぜなら、様々に異なる時間と空間が共存する場所にこそ、アートは宿るからである。
 パール座が閉館した理由は、支配人である清野太郎兵衛氏の体力的限界であった。清野氏は今年90歳になる。週に数日だけとはいえ、つい先月まで営業していたこと自体が奇跡だったと言ってよい。パール座と清野氏は、戦後という時代、そして震災という現在を、映画館の暗闇とともに生き抜いたのである。
 カオス*ラウンジは、パール座という文化の中心、この場所に関わる全てに敬意を表し、すでに閉じられてしまったパール座のなかに、架空の劇場を制作することにした。それは、かつてこの場所に、日常から隔離された暗闇があったということ、それが戦後から震災後まで守り抜かれたということを、もう一度思い出し、この場所に刻むためのモニュメントである。

 集合時刻までの一時間で駅近くのポイントを回ります。大抵は空き家になった商店や民家を利用して展示に工夫を凝らしていますが、展示内容も様々で、庭の中に四角い少しさびた鉄の枠が置いてあるのを見つける、ゲーム的なのもあります。でもこちらのお宅は現役で済んでいる方がいらっしゃって、先ほどまで居ました、ということでした。
 どこまでが実生活で、どこからが展示なのか解り難いのですが、展示よりも家の構造に感心するところもあります。下左の写真では急な階段を上がって行くのですが、2階の床レベルで幅が半分に絞られています。下右の写真は2階側から見た図ですが、右の×印の右側に部屋があって、そこへ行くには左の→から渡り板を踏んで進む用になっています。究極の立体スペース活用かもしれません。
 ここ(左と下の写真)以外の展示カ所には、全て係の人がいて、案内や入場チェックをしていますが、こちらには誰もいません。場所もとても分かりにくい上に、入ってみると階段をぐるぐると上がってゆく途中に、廃墟のような(かもしれませんが)備品の跡があって、不安を掻き立てるような音響だけが響いています。 出てくる途中に気が付いた説明版には、震災後にボランティアの活動拠点にもなっていたということでした。

 このほかに印象に残った「展示」としては、風呂桶兼ボートを背負って、牡鹿半島の随所で、船をこいだり、入浴をしてそれを記録した映像・パネルがありました。私もカヤックを漕ぐし、大自然の中で風呂に入る楽しさはよくわかっているつもりなので、あこがれます。でもお湯を沸かす方法を係の人に聞いたのですが、そこまでは受付担当では把握していないようでした。
 帰り道は、高規格道を末端まで利用するルートではなく、道の駅林林館を通って本吉町へ抜けるコースを取ります。往路で見つけていたミニストップで、梨のパフェと栗のソフトをいただいて、帰途につきました。