私の作文テキスト版(後期)       

鳴子のじいちゃん」              平成9年1月9日 釜石新報掲載

 前回この欄をお借りしてから八年、子供たちも少し成長し、親は少し老けました。今回もまた、遊びのことを中心とした独断的文章にしばらくお付き合いください。
 「鳴子のじいちゃんに、ちゃんと見てもらえよ」 わが家では、息子がふろから上がるときにこのように声をかける。何を見てもらうのかというと、タオルで水滴をきちんと拭き取ってあるか、髪も水気を取ってあるか…を見てもらうのである。
 温泉街の共同浴場はたいてい地元の人しか知らない奥まった所にある。なかなか見つからず付近を二〜三回往復したあげく、だれかに「共同浴場はどこにありますか」と尋ねることになる。山形県庄内の湯の浜温泉。ここは日本海に面した長大な砂浜の背後に温泉街が続く。共同浴場がニ箇所あるが、とてもそれとは思えない古びた円形のコンクリート造りの「倉庫」で、入り口が見み当たらない。あきらめてもう一箇所へ行ったが、こちらも路地の奥で発見に手間取った。途中で別行動をとった妻子の報告によれば、やはり「倉庫」が浴場で、安いので入浴して来たとのこと。温泉探しオリエンテーリングといったところでしょうか。
 さて、鳴子の温泉街でもやはりふろ探しをした。ここには「滝の湯」という数百年前からの名湯があり、保存会も結成されている。急な坂道を登り詰めた温泉神社の入り口に、巨大なホテルには負けないぞ、という意気込みで滝の湯があった。のれんをくぐると湯船が二つ、温度が違う。木の樋で打たせ湯もある。じいちゃんたちの他にウチみたいな「よそ者」の親子もいる。私が髪をすすいでいて、いつものように息子のほうが先に洗い終わって脱衣所へ戻ろうとした時、「ほらほら、ちゃんと拭いてかないとだめだ」という声が聞こえた。息子は地元のじいちゃんに、水滴を付けたまま上がろうとして注意され、赤い顔をして立っている。とてもありがたい注意でした。それ以来わが家では、湯上がりに「鳴子のじいちゃん」に見てもらうことにしている。

とっておきの温泉」part1 前編     H9.1.16

初夏、土曜の昼下がり。息子が学校から帰るのを待って出発。夏至のころは日が長く、空は遅くまで明るさが残っている。盛岡経由で歩行開始地点には午後4時着。それから約三キロ。山道と、子連れなので三時間の歩行時間を見て7時に到着予定。当時長男はまだ小学校一年生で、山登りは前月の松倉山に続いてこれが2回目。彼の歩行能力は未知数。まして山奥でのキャンプを伴うとなると、おねしょの心配もあるし、諸々の不安が無いとは言えない。
 とっておきの温泉シリーズ、Part1は「草の湯」。聞いたことがないと思います。高速道のサービスエリアでもらえるガイドマップをよくご覧になれば、八幡平のちょっと北に温泉マークと共に見つけることができます。日本でも有数の温泉地帯八幡平。玉川・後生掛温泉をはじめ一帯は遠く関西、九州方面からも効能を信じて、また観光にやって来る人で賑わいます。でも、草の湯に入りに来るお客はいるでしようか?
 退屈しないようにしりとりや、なぞなぞをしながら息子の後について行く。湿原の小道を縫ってミツガシワの咲く池塘のわきを通り、時々甘い香りのするオオシラビソのトンネルをくぐる。足元では、イワカガミやヒナザクラの小さな花たちが応援してくれる。ブナの森の深くへ下りて行くと、底の赤い沢が横切っていた。一年生のコンパスではまだ飛べない距離。私が飛ぴ石に跨(また)がって、右から左へ子供を持ち上げて向こう岸へ渡そうとした。でも、抱えられた方はこわかったのか、私に足でしがみついてきた。こらえる間もなくバランスを崩して二人ともドップン!息子はおしりのあたりまで濡れたとのこと。
 薄暗くなるころ、国立公園境を抜けて平地を見つけ、テントを張る。最寄りの人間がいる所まで数キロ。親の私もこんな山奥でキャンプをするのは初めて。でも、今回からは良き相棒がいる。ひとりっきりと比べてなんとも心にゆとりがある。
 二人で夕食をとり、早めに眠りにつく。夜半を過ぎたころだろうか、何か笛みたいな音が鳴ったようだった。
(次回につづく)

「とっておきの温泉」part1 後編     H9.1.23

 八幡平の山奥に湧く草の湯を目指した私と長男は、キャンプの夜、笛のような音を聞いた。気のせいかな?また寝袋にもぐると再び、ひゅーと単音が聞こえた。夜中にこんな所で笛を吹く人がいるはずがないが…。ぞっとしながらまた浅い眠りについた。じいちゃん(父)の話では昔は気味が悪いので餓死鳥と呼んで、天候不順で不作になると言っていたそうな。鳥に詳しい人によれば、トラツグミではないかとのこと…。
 しばらくしてテントの生地がいくらか明るく見え始めるころ、こんどは「どどどど」と四本の足が走り回るような音。これは多分カモシカでしょう(熊とは考えたくなかった)。自然の中に泊めてもらい、そこの住人たちが間近に感じられた夜でした。翌朝は梅雨の合間の快晴。心配した子供も疲労や発熱も無く快調。朝食後、テントをたたんで出発。初夏の花たちの中を行くと、「あっ、おんせんだ!」。目指す草の湯は開けた谷間に、こぽこぽとわき出ていた。
 だれかが河床に素堀で作った湯船がある。三・四人は入れるかな?人工的な入浴設備は一切無く、岩の上に脱いだ衣類を重ねて早速入る。もちろん誰も見ている人はいないので平気。透明に見えたお湯は、入ると大量の湯華が舞って乳白色に濁る。底は砂利のままなので足の裏がくすぐったい。わき口は数力所あって地底深くから時々気泡を混じえてゆらゆらとわき上がってくる。温度は沢水と混じるせいでややぬるいが、小石を並べて水の入り込む量を加減するとちょうど良くなる。子供は湯船の中を「よいしょ、よいしょ」と手で歩き回ったり、見えない底から手探りで何かつかんでいる。「それ、なにや?」「ン、石だよ」。石を拾い上げて大事そうにしている。空はあくまで青く、その下に木々の緑、岩と温泉、そして俺たち小さな人間がいる。車で乗り着けて、カラオケのできる、お客で満員の「秘湯」がブームです。でも自分の足で歩いて入りに行く「とっておきの温泉」にあなたも行ってみませんか?


参観日     H9.1.30  

「あっ!みんなが知ってる、ゆきこちゃんのお父さんだ」 次女の参観日に顔を出すなりだれかがしゃべり、授業中にもかかわらず、みんなでこっちを見てにこにこしている。同級生の何人かは家に遊びに来るのだが、みんなとなると、何で知られているのでしょう?オレってそんなに有名?…。よく考えたら二ヶ月ほど前に四年生の社会科見学で下水処理場の説明役をしたのでした。
 温泉の事などばかり書いていると仕事はしていないんじゃないかと思われるので、今回は業務の一部を少々。 「モシモシ、下水は川へただ流すだけなのにどうして料金を取るんでするか?」。釜石で下水処理を始めた十八年ほど前には、こんな電話がよくかかってきました。下水を集めて浄化し、放流するには、上水道の水を配るよりも多くの費用が必要なことを説明しておりました。最近は「うちのあたりにはいつ下水管が入るんですか?」という電話が多くなり、下水道への理解と関心も深まってきました。見学の皆さんが来ると私が担当のときはまずクイズを出します。…太郎君の家では毎日川で用足し(排便・排尿)をしていました。花子さんの家では、台所やふろや洗濯等の水を全部川へ流していました。さて川に住んでいるお魚さんには、どちらの水が迷惑でしょうか…。婦人会などの方は「予習」をして来るらしく、正解が多いのですが、BOD(生物化学的酸素要求量)負荷量という単位で測ると太郎君の家が一人一日13グラム、花子さんが27グラム(厚生省水道環境部資料)となり、なんと二倍以上も花子さんの家(生活雑排水)が、太郎君の家(し尿)よりも汚染の度合いが高いのです。ご存知のようにし尿をそのまま川へ流すことは禁止されています。しかし、雑排水は汚濁の度合いが大きいにもかかわらず、放流が禁止されてはいません。まだ下水道の普及が行き届かない区域や合併処理場を使っていないお宅では、よりお魚さんに迷惑をかけていることになります。身近に出来る食器の洗剤前ふき取りや、三角コーナーへの網の設置、汁物を残さないことなど、水質保全へのお手伝いをお願いします。


一番ほしいもの    H9.2.6

あなたが今一番欲しいものは何ですか。…中学卒業当時の文集にこんな設問があります。読者の皆様は、何を思い浮かべますか?私は今も当時と同じ。宗教やボランティアには縁遠いのですが、世界平和。
 「こんな家に住んでいたんだ」。息子と同じ歳で当時十歳のドミンゴ少年が、地面に指で書いてみせる。アフリカ南部、アンゴラの空港近く。彼はこぼれ落ちた穀物を拾い集め、ごみを取り除いて市場で売り、食べ物を手に入れている。子供だから、高く買ってくれる人はいない。内戦で弟や父母は殺され、逃げ延びてきたけれど、だれも守ってくれる人はいない。イギリスの取材スタッフに優しい笑顔で答える。「せめて週末だけでも安心したい。通りで寝たくないし、殺されたくない」
 私から質問。世界中で一番困っている人たちはだれでしよう。この答えは分れるだろうが、私は難民(自国の保護を受けられず、戦乱などで財産・地位・家族や命までも失おうとしている人々)だと思う。私たちの身辺にも確かに困っている人は大勢いる。でも、病気や事故を除けぱ、因っている程度が全く違う。次の自問自答は 「ではあなたはそれを見て何をしましたか?」。 これにはグッと答えに詰まる。現在の日本の生活にどっぷりと浸かっている身にとって、現地へ実際に援助に行くところまでは、余程の決断がなけれぱできない。それじゃ「世界平和」は空念仏か?身近にできそうなことを二つ。自分の子供たちにそのような現状を、機会を捕らえて伝えてゆくこと。そしUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)への寄付。直接現地へスタッフを送り込んで活躍している同機関は、各国政府からの拠出金や個人からの寄付で活動している。方法は簡単で、郵便局で00190−8−8870 UNHCR(振込み手数料免除)(※その後振込先変更〜00140-6-569575HCR協会)へ振り込むだけ。私たちにとっては、少しの金額でも現地では何人もの命を救える。
 少年は、はにかみながら続ける…「いろんなことを考えるよ。戦争の無い所で暮らしたい。そこで友達と好きなだけ遊びたい。おふろに入って、テレピも見たい、そして眠るんだ。洗濯や掃除もする、そのあとで自分のおもちゃを持ってうちのベランダで遊ぶんだ。…できるといいな。」


戦後52周年   H9.2.13 

「世界反ファシズム戦争勝利50周年」。これは昨年の夏に釜石市が主催した、平和を祈念する国際慰霊祭のレセブションにおける、ある招待国(被害国)の方の表現である。もちろん先の戦争のことを示している。被害国の方の考えを生で聞いたのは初めてのことで、迫力を感じる。しかし、残念ながら日本には次のような歴史観を持っている人がいまだに多くいる。 @戦争で被害を与えたことをアジア諸国に謝罪するのは、恥じるべきことで、次の世代に恥の教育をするべきではない A日本がしたことは、西欧諸国の植民地支配と差はなく、日本だけが悪いのではない。
 かつて、日本が支配地で無抵抗の民間人をも殺し、当市のように強制連行や抑留の身で亡くなった(殺された)人が多くいたことも事実だ。日本人が自分たちの悲しみだけをもとに行う終戦記念行事は、被害国からは受け入れられないものであり、同じ過ちへ踏み出す一歩とさえ言える。Aに至っては、つかまった泥棒が「おれだけじゃない」と開き直っているようなものだ。また現在でも世界各地には戦乱が多く、これからの世代も「戦争を知らない子供たち」ではすまされない。 「戦後生まれに何が分かる!」と言われるかもしれない。だが史実を語る時、実際にすべての現場に立ち会ったことのある人はいない。入って来た情報を分析し、信頼に値すると判断した時、人はそれを事実と認識する。情報入手ルートには、人伝え、NHKを中心としたマスコミ、出版物、教科書などがあるが、教科書は、戦前戦後を通して「検閲」を受けていてあてにならない。出版物は、著者の一方的な意見を鵜呑(うの)みにしやすい。その点、現代のマスコミは官憲の介入も少なく、編集者の偏向がなければ信頼度が高い。その意味では、報道管制されていた戦中世代と比べて、戦後世代の正確な情報の入手量は、逆に先入観がない分だけ豊富だといえる。
 全国紙とは違う地方紙の役割とは何だろうか?報道を通して、人々の相互理解を深め、郷土の発展に資することかと思う。これに加えて郷土の過去を振り返り、代々語り継いで行くべきことがらを、負の遺産であっても発掘紹介してほしいと感じる。


とっておきの温泉Part2 前編   H9.2.20

 固い粘土質の急斜面に、両手両足でへばりついたまま、二人とも動きがとれない。後生掛温泉を出発して「ベコ谷地」を経由し、子供の足で二時間…。それまでほぼ平たんにたどって来た笹(ささ)やぶを踏み分けた道跡は、突然途切れて植生ごと谷底に崩れ落ちている。五十m先には道の続きが見えているが、トラバース(斜面の横断)に失敗して滑落すれば、下には白い濁流が渦巻いている。折からの雨で表土はますます滑りやすくなってきた。横断を始めたものの、するずると高度を下げ、これ以上は降りられないところまで来てしまった。子供の足を両手で支えたまま踏ん張って耐えていたが、バランスが崩れた!登山靴のくるぶしの内側で斜面を削りながら滑り降りてゆく。五m、十m。流れの直前で何とか止まつた。それがとっておきの温泉Part3との出合いであった。白い濁流は硫黄分の多いお湯の川だったのだ。
 息子と二人でへんてこな山道を歩き回るのは楽しい。何をもって「へんてこ」とするかというと、人があまり行かない所。このときもメインルートに出るまでだれとも会わなかった。それから地形図に見える記号。湿原や温泉、山奥にある取水ぜきなどが目当てだ。今回も一般的な登山ガイドでは紹介していない小道をたどったのだが、地形図上に温泉マークが無いのにお湯がわき出ているのはここが初めての体験であった。
 何とか谷底にたどり着いて流れに手を差し込んでみると、温かい!湯加減もちようどいい。二人で手を差し入れてかじかんだ指をほぐした。だがこの時は温泉=入浴ということをなぜか思いつかず、かすかなあせりと共に先を急いだ。道は焼山の火口に向けて急な登りとなる。踏み跡はほとんど無く、二万五千分の一の地形図と、高度計、磁石の三点セットによるルート探索が頼り。だが複雑な地形と、ガスによる視界不良で、現在地がつかめなくなってしまった。やがて白い湖のほとりに出る。湖面の奥では火山ガスの噴き出す音が不気味に響いている。


とっておきの温泉A(後編)   H9.2.27

 後生掛温泉と玉川温泉の間にある焼山の中腹。あまり人の通らないルートで、思わぬ温泉を発見!だが、帰路につく前に道を見失ってしまった。火山性噴出物による土壌のため、草木は生えておらず、霧で目標物も見えない。二度三度と同じ場所を往復して進路を探す。当時小三の息子が、本気とも冗談とも付かずつぶやく。「あーあ、こんな所で死ぬなんていやだな」。大丈夫だと声をかけたものの、内心は不安であつた。 自分の体力は、あとどれくらいもつのか予想ができるが、子供の分は未知数だ。天気さえよければ、薄着で半分の時間、半分の消耗で進むことができるのだが…。もしもの時には荷物を捨てて、子供をおんぶして帰る覚悟も必要だ。
 雨の中、なんとか昼食をとる予定の山小屋に着く。最悪。事前に関係機関に状況を照会し、利用可能との回答を得ていた焼山避難小屋は、朽ちて屋根が半分くらい無い(現在は立派に改築されている)。内部も吹きさらしに近い。それでも他の十数人のパーティーが豚汁を作っているところだ。中に入れないで立っていると豚汁が出来たら食べていかないかと、親切なメンバーに勧められる。頂きたいのはやまやまだが、自立・自力を基本にしたい野外生活なので、考え込んでしまった。
 合羽(かっぱ)を着て立っている息子の顔をのぞき込むと、ほほに寒冷じんましんが出てはいるが、食べなくてもいいと言う。帰りにはもう一山越えなけれぱならない。ここに停滞していれぱ、風雨で体力は消耗する。普段ならささいなことだが、この場ではギリギリの選択であった。立ったままコンデンスミルクをなめ、パンを少しかじって帰路に就いた。現代の社会では、親が子に十分な保護を与えてあげることができない状況はまれだ。親の私も苦労らしい苦労はしたことがない。日常の生活では得られない、さまざまな経験。子供の人生に少しでも役立ってくれればいいな、というのは自分の趣味に付き合わせるための言い訳だろうか?

 2ヶ月間読んでいただきましてありがとうございました。次第に暖かくなりますが、油断して風邪をひかないようにしましょう。

(おわり)