「焼山湯の沢 2021」 2021.10
topへ
「本当の秘湯」topへ
 8年ぶりくらいでしょうか、最後に行ったのは澄川地熱発電所からの最短コースだったかと思います。2021年にもハイキングを各所歩いていますが、8月の標高差400m余りのコースでバテてしまったので、体力造りに取り組みを始めました。その成果か、9月と10月に行った先では若干歩行が楽になったような気もします。
 (秋田)焼山湯の沢は90年代から1・2年おきに通っていましたがしばらく間が空いてしまいましたので、どうなっているか向かってみることにしました。

 
 夕刻に大湯沼を散策して明日の目的地近くの焼山を望みます。観光客がたくさん散策しています。茶店は閉まっていて名物の黒卵は買うことができませんでした。後生掛温泉とは経営が別で、夏だけ関東からやってきて営業していたんだそうですが、今後も続けてほしいものです。
 右写真は後生掛温泉の湯治部に至る通路で、昔の登山口の入口です。この坂を下って行くと足湯があったのですが、昨年見た時はなかったようです。画面右手前に焼山火山の案内板があったのですが、それも登山ルートでなくなったためか撤去されています。
 
 後生掛温泉公共駐車場は紅葉シーズンの週末とあってほぼ満車でした。大型バスもいて歩いて後生掛温泉までお客さん達は行って来たようです。登山者もたくさん夕刻には戻って来て、大抵は焼山方面に行って来たようです。(左写真は翌朝)
 トイレ棟がありますが、利用可能なのは9痔から16時半までで、夜間は閉鎖されます。同じ道路沿いでも蒸けの湯入口のトイレは24時間開いていたように思います。
 何年か前にはここの駐車場と大沼ビジターセンター前の駐車場には「車中泊禁止・夜間駐車禁止」の看板が出ていましたが、現在はトイレ棟に「夜間宿泊禁止」の掲示があるだけになりました。
 駐車場を夜間使えないとなると、焼山山荘に一泊して周回する場合などはとても困ります。タープなどを貼ってキャンプ場みたいに使うケースがあったのかもしれませんが、何でも規制すればよいという小役人意識の根拠は貧しいものです。 近くに大沼キャンプ場がありますが、密林中の熊のエリアにあるところはためらわれます。
 以前の登山道は、後生掛温泉の湯治部の渡り廊下を、土足で横切っ、裏山へ上るような感じで始まっていました。土足が可能な部分にマットが敷いてあって「ここだけ土足可」とたしか書かれていました。その当時の行動記録はこちらからご覧ください
 ですがさすがにそれではまずいということになったのでしょうか、二年くらい前に気が付いた時には、こちらから屋外だけを通って焼山に向かうように登山道は変更されたようです。
 しかしこの道も本来は水路管理用なのか、無駄に迂回する距離が長いので、バス停の横にショートカットする道が付けられていて、公共駐車場からはそこを通るのが現在は一般的になっているようです。
 なお、以前から温泉宿を通らないルートはあったのですが、こちらの部分にあった橋が無くなったので、バス停横経由が現在はベストかと思います。昔ここには後生掛温泉の別館ホテル山水が立っていて、ベコ谷地から下りてくると、山水の裏にあるゴミ焼却炉のあたりに出てきたのでした。
 写真は後生掛温泉の前を流れる沢水の放水路に沿って少しの区間下り坂を歩く所です。
 右写真で分かりにくいのですが、右奥にある建物が後生掛温泉の湯治部です。そこから少し登ってこの登山道と合流していたのですが、現在は通行止めになっています。
 登山道からは、後生掛温泉の源泉から旅館部・湯治部まで見えます。以前は○○風呂も見えたのですが木が茂って来ました。
 苔むした木道や、曲がった木のゲートをくぐり、色づいた木の葉を眺めながら緩い登りを進んで行きます。
 国見台の近くに来ると見晴らしの利く所に出ます。右の白い湯気は大湯沼、左寄りの斜めの線は秋田八幡平スキー場です。アップにすると公共駐車場に止めた車も見えます。
 進行方向に目を向けると澄川地熱発電所の湯気も見えます。この後湯の沢を回った後に通過予定のところです。
 何か所か距離道標があります。この位置の道標には以前は国見台と書かれていたような気もするのですが、地形図を見ると登山道は国見台の中腹を巻いてゆくので、この方が良いのかもしれません。
 やがて道は坂を上り切り笹薮で遮られていた視界が急に開けて栂森の肩に出ます。 以前はここを毛せん峠と呼んでいて、右上写真の左側古い標柱にはその名が刻まれています。地形図に記された毛せん峠は少し前に通過してきています。 地形上で観察すると、鹿角方面から入り、湯の沢から、田沢湖・五十曲方面に向かうには、火口付近の急峻な斜面を通過しないで、栂森への緩やかな斜面を詰めて越えて行くのが良さそうです。植生も、地形図上の毛せん峠の笹薮がある所よりは、栂森の肩が「毛せん」に近い感じがします。  この栂森へ上る道の跡らしいものが空撮でとらえられました(後述)。
 谷底に目的地の湯の沢が見えてきました(上写真)。何度かお世話になったことのある焼山避難小屋も見えます(左写真)。
 焼山の避難小屋に到着しました。私の知る所では三代目になります。二つ前は土足のまま上がれる2階がありました。一つ前は平屋で長男・次女と別の時期に泊まったことが有りました。現在は冬季出入り口が高所に設置された造りになっています。
 二つ前の小屋の末期に、長男と泊まることを計画して大沼のビジターセンターに利用が可能かどうか念のために問い合わせをしたところ、問題ないとの回答でした。前日に後生掛の駐車場に着いたのですが、余り天気が良くないので翌日日帰りに変更して、翌朝出発してベコ谷地経由で迷いそうになりながら小屋に到着してみると… 小屋は半ば朽ちていて、その前には危険なので立ち入らないようにとの札が立っていました。
 注意喚起の札は登山道入り口に立てておくべきで、仮に夕刻の雨降りにこの小屋にたどり着いたとしたらぞっとします。注意札は何の役にも立ちません。しかも事前に電話で確認したにもかかわらずです。秋田県の担当部署に手紙(当時はメールは無い)で報告し、担当課から返信をいただきました。(1990年代のことです)
 一つ前の小屋が利用不可になった時には、後生掛温泉側と、玉川温泉側の両登山口や、八幡平見返り峠のビジターセンター(?)でも利用不可の掲示がなされていましたので、対応は向上したようです。
 現在の小屋の中には、先代の解体材料をストーブの薪に使えるようにたくさん貯えてあります。やや不用品の置き去りが多いのと、トイレ掃除をするための道具が足りないような気もします。あらかじめわかっていれば可能な範囲で持参できたかも知れません。情報を循環させることが出来ても良いのかなと思いました。

 小屋から湯の沢に向かうルートは現在は、1997年に水蒸気爆発のあった火口を通って行く用に設定されていて、2本の白いロープの間を進むように(はみ出ないように)なっています。またこのルートはGoogleマップのストリートビューにも掲載されています。


 噴火後しばらくは小屋の前から直接向かうルートは立入禁止となっていて、湯の沢へは湯沼の近くを経由して向かっていました(下写真、湯沼の左下のあたり)。 (上下2枚の写真は空撮切り出し)
 中央やや左寄りの沼が空沼(からぬま)で、その東端に出来た最新火口(左下写真)の縁を辿ってゆきます。間もなく開けた植生の無い所に出ますが、こちらが湯沼経由で来たコースとの合流点です。ただし、現在はロープで規制されて立入禁止になっています。
 湯沼には硫黄鉱山があって、水を抜くための放水路が切り開かれたりしたようです。通い始めた頃には、ガラス瓶や木柱が立っていたりしましたが、今はほとんど見えません。放水路の向こうに建物が朽ちた後の木材がまとまって見えます。(右写真)
 最初に来た時には逆回りで、道跡を確かめながら、地形図上に記載のない所を迷いそうになりながら登って来たのでした。現在はロープが張られていて迷いたくても迷えません(積雪・残雪期以外は)
 目的地の湯の沢が近づいてきました。
 この湯の沢周回コースで、これまで人と出会ったことはあまりないのですが(確率的には2割くらい)、今回は登山ブーム・秘湯ブームが進んだためか、団体1組、1・2人4組程と会いました。
 お湯の流れはいつもと変わらず豊かに流れています。適温ポイントはその年や時期によって違うのですが、やや下流が適しています。40年ほど前には滑り台のように遊べた狭い水路は、酸性水の浸食のためか、変形して滑ることはできません。
 いつもだと私も野湯を楽しむのですが、周りに人がたくさんいるので今回は足湯だけにしました。
 

 左写真の左岸中腹やや上部に斜めに笹薮に付いた線は、大場谷地方面からの道です。大場谷地からは入口が確認できませんが、その後に曽利の滝バス停近くから地熱発電調査(多分)の車道が開削され、湯の沢への道で最短となりましたが、現在はまた藪に戻っているようです。

 
 下の写真(空撮切り出し)は、湯の沢の入浴適温箇所周辺の、新旧歩道の説明です。私が、当時小学校低学年の長男と初めてきたルートは、後生掛温泉からベコ谷地経由でした。湯の沢に下りる新道はまだ出来ておらず、旧道をそのままトラバースしようと進んだのですが、表土の草付きは崩れて粘土質の斜面がむき出しになっていました。慎重に進んだものの途中で滑って二人でズルズルと滑り落ちて行きました。何とか沢の手前で止まって息をつき、近くの沢水に手を入れてみたら、なんとそれは温かいお湯の川なのでした。これが私と湯の沢の出会いでした(地元紙掲載の紀行コラムはこちら)。

 より接近した写真です。新道も当初は、より左上の方から切り拓かれていましたが、表土崩落のためか少し手前に付け替えられたようです。何年か前には登山者数の調査のための自動光電式カウンターが設置されていたことが有りましたが、2021秋現在は後生掛温泉旅館の裏手で調査が行われているようです。

 記録映像の表紙を作ってみました。クリックしてご覧ください。
 

 今回の焼山湯の沢周回の記録は、地上歩行動画と空撮動画を結合してYoutubeにアップしてありますので左写真のリンクからご覧ください。地上撮影部分も4kで撮影できるコンデジ(DC-TX2)を使ったのですが、手ぶれ補正が不十分なのと、画角が狭くなってしまい、周囲を見回しながらの記録には不向きであることがわかりました。

 ですので次回の歩行動画記録には強力なスタビライザー内蔵のアクションカムが使えれば良いかなと計画しています。でもそうなると望遠寄りの景色も欲しい時があり、2台持ち運びも大変で悩ましいところです。
 さて空撮では、これまでに何度か通った道や山々を全く別の視点から眺めることが出来ます。後生掛温泉と玉川温泉をつなぐ道が越える名残峠へ向かいます。
 上写真は外輪山の一部にある溶岩ドームです。名残峠から湯の沢へ、いつかここを経由して行ってみたいとも思っています。左写真の左上は焼山頂上です。しばらく名残峠は越えていないのですが、以前は峠から頂上まではっきりした道は無かったと記憶していますが、最近の記録だと結構行かれている方が多いようです。

 名残峠には展望台があります。向こうに下りて行くと玉川温泉の遊歩道の一角に出ます。中央のやや左に白っぽく見える所は多分 叫沢 です。何十年か前に人身事故が起きたことがあって立入禁止になっていますが、なぜか近くの国道にバス停が立っていたりします。その左奥に玉川温泉大橋が見えるのですが、動画をYoutube32型以上のテレビ、出来れば4kでご覧になるとはっきり見えるかと思います。


 下の写真は、湯沼上空から北東方向を見たところで、右寄りのやや青みがかった沼が 空沼(からぬま)です。下が湯沼です。現在の公式ルートは空沼上方を左右に通りますが、以前は湯沼の畔を右下から左上に進むしかありませんでした。噴気や泡立ちがありますがこれまでは臭気を感じたことはありませんでした。中にはこの湯沼に入浴!(冷たいはずですが)した記録をアップしている方も居るようです。この湯沼から左上の湯の沢方面へと、空沼方面に、水抜きして硫黄採取するための排水溝が掘られたようです。
 左の写真二枚は、湯の沢入浴適温箇所をほぼ真上から眺めたところです。ジグザグの登山道が上方に見えます。現在ははっきりと二本のロープで登山道が区切られていますが、以前は何となく稜線の踏み跡らしいところを辿って見つけながら進んでいました。植生が薄い所が登山道でした。
 沢の左側(右岸)に沿って登山道がはっきりと見えますが、これも以前は飛び石を適当に跳ね渡ったり、何となく斜面を横断したりしていました。

 右写真は栂森の北西に伸びる尾根上の斜面です。笹薮の中を左下から右上に道の跡が繋がっているように見えます。上空から眺めて初めて目にとまりました。
 毛せん峠への道について前述しましたが、ここも他のルートのように昔は使われたけど、今は藪に覆われて歩行困難になったところである可能性もあると思いました。

 湯の沢からは澄川地熱発電所とベコ谷地を経由して後生掛温泉へ戻ります。紅葉を愛でながらほぼ傾斜の無い道を進んで行きます。この区間は以前は数年に一度しか刈払いがなされず、年によってはほとんど藪漕ぎに近い状態だったりしましたが、今回は利用者が増えて手入れが頻繁になったのか、やぶは大丈夫でした。
 ただし足元はたまにぬかるみがあったり、洗堀で大小の石が乱雑に並んで濡れて滑りやすかったりします。
 大きな石に出来た窪みがカエルの顔になっていて、目の部分に土が貯まっている所へ、誰かが目玉を付けてあげていました。
 

 40分ほどで澄川地熱発電所の分岐点に着きます。焼山湯の沢に向かう最短歩行コースはここからになります。だいぶ前は見学者用の説明施設が日中は開いていましたが、今は予約時のみのようです。以前は国道からの入口に立入禁止の看板がありましたが、国立公園の歩道に一般登山者が入ることを妨げる看板の根拠は何なのか、ビジターセンターに問い合わせたことが有りました。

 ベコ谷地は広大な草原が広がっていて気持ちの良い所ですが、秋になると草本が伸長して固くなり、近くで見ると草というより雑草野原という感じになっています

湯の沢への記録はここまでですが、この後に立ち寄ったところも付帯して記します

 八幡平は岩手と秋田にまたがる分水嶺になりますが、湯の沢は秋田側です。岩手に戻る途中に御在所沼があります。この辺りには温泉宿やユースホステルや八幡平スキー場もあったのですが、現在はすべた無くなって地熱発電所が稼働しています。上部は地滑り跡のすぐ下に発電施設が建っています。

空撮動画はこちらからどうぞ

 五色沼(写真の上方、黄土色の丸い沼)は、その名の通り季節の自然条件により色が変わるようです。周囲にはドローン撮影でなければ見られない小さな沼も散在しています。スキー場があったころはここをめがけて滑り降りて行っていました。

 通常のツアーではクレソンジャーニーでの車中泊で完結することが多いのですが、covid19関連の宿泊施設補助を利用して、ホテル安比グランドに泊まらせていただきます(じつは二回目)。館内はタワーへ繋がる通路が1階のほか地下にもあります。左写真のフェンスは2階で、エントランスホールの上部になります。下方の灯りはフロントです。

 館内を探検して回ります。レストランやトレーニングセンターなどもあります。洗濯機・乾燥機やロックアイスも少しわかりにくい場所ですがありました。

 客室からレストランの中庭を挟んだところに、図書室もありました。室内からは中庭用客席のイルミネーションも見えます。給水器・給茶器もあります。子供連れでも楽しめそうなのですが、ここの存在がややわかりにくい場所で、案内板も見つけられなかったので、もったいない気もします。
 前森山方向に建設中の黒い屋根の建物は、ハロウ安比校です。

 安比を出て、八幡平市内にある日本の滝百選の「不動の滝」へ向かいます。同市内には、だんぶり長者伝説のある泉へも行ってみたいと思っていましたが、また温かい季節になってから訪問することにします。

 次の目的地はいわて子どもの森です。後日孫二人を連れて宿泊する予定なのでその下見です。イーハトーブトライアルの起点にもなっている七時雨山荘の前を通って行きますが、冬季閉鎖となるらしく、野菜の収穫が忙しそうでした。この道は「七時雨カルデララインと呼ばれるようですが、ここにもカルデラがあったとは知りませんでした。日本中カルデラだらけですね。

岩手県立児童館 いわて子どもの森のあたりは、出来る前の30年近く前に観光天文台を見学したりスキー場の宿泊施設を使ったことはありましたが、どんな施設なのかよくわかりませんでした。児童館というと街の中にあって子供たちだけが集まる所というイメージでしたがこちらは違うようです。

左写真は中庭の親水公園です。クラウドファンディングで改修費用の一部を集めているというLINE通知が来ましたが、ふるさと納税と絡めてあります。同制度は貴重な税収を使って、制度の趣旨はそっちのけで返礼品だけが目当ての人に支出するシステムで、税控除を受けた場合には居住地の税収が減額するという、不合理極まりない制度です。ただの資金募集であれば寄付しようと思いますが、この制度に絡めてあるので寄付しません。

屋外施設は11月第一週で閉鎖となりますが、館内は通年開館です。中でもこの「冒険の塔 のっぴい」はクリアの難度が高いです。小学生未満は一人で利用できないので、後日年少の孫と挑戦してみました。網の筒を登る際に、狭くて足が支えて登れないので、両手で全体重を引き上げながら登ったりします

屋外施設はキャンプ場だけを見学しましたが、現在主流の車が横付けできるオートキャンプ場ではないので、あまり利用した跡が見受けられません。でも全天候型の円錐状屋根が付いたキャンプファイアー施設があったりと、ユニークな設備もあります。他所でグランピング設備のある所も見ましたが、雨の夜はトイレはどうしようかと思うような心配もあります。

 右の動画は屋内施設の連絡通路です。照明と音響の演出ですがワクワクします。50年以上前に23時から放送されていた「タイムトンネル」という番組を夢中で見ていましたが(当時はビデオなんか無いので子供ながらその日だけ夜ふかし)、それを彷彿とさせて、どこか異世界に入り込んで行くようです。
(右写真クリックで動画が始まります)
外泊最終日もGotoを使って田野畑村の羅賀荘に泊まります。たまに前を通ることはあっても入ったことはありませんでした。日帰り入浴も出来るようです。ここも津波で3階の浴場(大きな窓の照明が見える)まで浸水したそうですが、立派に復活しています。海鮮物の食事が充実しています。
 翌朝はこれも初めての北山崎断崖クルーズ船にのります(右上写真)。陸から海岸線を辿ることは多いのですが船からはまた景色が違います。まだ水門の復旧工事が続いている所もあります。4K動画でこちらからもご覧ください

下写真は北山浜の南隣の浜で、右端に車や人が見えますが、私たちが前回訪れた際には車道が復旧されておらず、県道から急斜面の歩道を下りてきたのでした。左端の黒っぽい所がみちのく潮風トレイルの一部にもなっている洞門の入口です。また中央付近の岩には多分トレイル唯一の縄梯子が掛けられていて、高潮時などには迂回できるように設定されています。それにしてもこのような海岸線の辺鄙なところになぜ人力でものすごい苦労を重ねて隧道が掘削されたのか? 先日見たこの辺りの紹介番組では、以前は盛岡から島越に到達するのに8時間を要したということでした。さらにそれ以前には陸路での集落間の往来が歩道のみで著しく困難で、船運が重要な交通手段だったと思われますが、海が荒れた際などの往来の確保のために掘削されたのではないかというのが私の想像です。このような隧道は北部陸中海岸に相当数あります。今度はヘルメットと強力ライトを持って探索しようと思います。

おわり